三国志の世界のイメージだと、馬に乗り椅子に座り、靴を履き
室内は土足で大きなテーブルで大皿から食事を取るというイメージかも知れません。
しかし、そんな漠然としたイメージは、実は、征服王朝である唐の時代に
西域から入ってきて定着したものなのです。
三国時代の生活習慣は、親近感が湧くほどに日本に近いものでした。
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この記事の目次
椅子は殆ど無し!主人の席は床に畳を敷いて高くする
三国志の時代、椅子はある事はありました。
後漢のアホ皇帝の霊帝(れいてい)などは西域コスプレマニアで、
日本の戦国時代の将机(しょうぎ)の原型のような折りたたみ椅子が
大好きでよく持ち歩いていました。
しかし、一般には椅子は普及していないので主人の席は畳を置いて
一段床より高くしていたのです。
当然、来客にも椅子はなく筵(むしろ)などが敷かれた席に座っていたのです。
今の日本の田舎の風景に近いですね。
三国志の時代には、室内は土足厳禁だった?!
中国の礼義について書かれた古典の礼記(らいき)、曲礼上(きょくれいじょう)には、
「玄関に履物が二つ以上並んでいる場合には話し声が聞こえれば
入ってOK、聞えなければ入ってはならない」と書いてあるそうです。
礼記は、唐代の物が現存する最古のものであるようですが、
そこにも履物を脱ぐという記述があるという事は、唐代までは室内は、
日本と同じように土足厳禁だった可能性がありますね。
一方では魏晋南北朝の時代には戦争の影響で室内では履物を脱ぐ習慣が
廃れたという記述もありますが、三国志の前半から中期には、
履物を脱いで室内にあがるというのは常識だったのでしょう。
脇息(きょうそく)という肘掛けも存在した
脇息というのは、時代劇で殿様の脇にある肘を乗せる道具です。
三国時代にも、この脇息があった事が呉の重臣、朱然(しゅ ぜん)の墓が
発掘された際に出土品から確定しました。
脇息は椅子に座る生活では全く無用なので、これにより、
三国時代は、床に座り脇息を使う生活様式であった事が証明されたのです。
なんと!下駄を履いていた三国時代の人々
下駄というと純和風なイメージですが、これも元々は中国から伝来したものです。
中国では木履(もくり)という名前で鼻緒はなく靴のように足をすっぽり入れますが、
ちゃんと、下駄の歯は入っています。
元々、木履は雨の日にぬかるみで足元が汚れないように
履いたそうですから、歯が入っているのにも納得ですね。
西晋の謝安(しゃあん)という政治家は華北を統一した
前秦の符堅(ふけん)の大軍勢を甥の謝玄(しゃげん)が破ったと聴いた時に、
嬉しさのあまりに小躍りして木履の歯が折れたのにも気が付かなかったという
故事があります。
そう言えば、曹操(そうそう)も死後に残される妻の事を心配して、
木履の飾り緒つくりの技術を習わせたとありますから、
当時、木履は一般的な履き物だったのでしょうね。
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中華のテーブルなど無し、食事は膳が用意される
中華料理というと、大きなテーブル席で、色々な料理をつつき合うという
イメージですが、これも後世のもので三国時代には客人の数の
膳が用意されていました。
料理は給仕が持って行ったようですが、複数で大きなテーブルを囲むという
習慣は当時まだ無かったのです。
また、当時はドアなどが無かったので、部屋と部屋の仕切りには、
衝立が使われていたのだそうです。
まるで、平安時代の日本の宮廷のようですが、元々は中国が本場で、
その後、中国の様式が変わり日本は輸入した様式が残ったのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
こうして見ると三国時代というのは、少し前の日本の伝統的な生活に近い
と言う事が言えると思います。
すごく異国の雰囲気がある曹操や孫権、劉備が下駄を履いて、
畳に座り膳からご飯を食べていたと聴くと、何だか親近感が湧きませんか?
本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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