三国志の曹叡の時代、中国の北方・遼東に大きな勢力を築いてた公孫氏。
遼東は公孫淵が司馬懿に討伐された事件が発生した事で、多少知っている方もいると思います。ですが、公孫淵がこの国を大きくしたわけではなく、彼の祖父や父たちがこの国を強く大きくしたのです。そして今回紹介するのは公孫淵ではなく、遼東を過失なく統治した公孫恭について紹介したいと思います。
「公孫恭 人物像」
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父・公孫度が遼東の覇権を握る
遼東は元々公孫氏が統治していたわけではありません。ではいつ頃から公孫氏が遼東を統治し始めたのか。
それは董卓が朝廷で専権を振るってやりたい放題していた頃、徐栄の口添えがあって公孫度が遼東太守として赴任し統治することになります。ですが、徐栄の口添えがあっても公孫度がいきなり遼東全域を統治できるような力を持っていたわけではありません。公孫度は元々小役人から一気に遼東太守へなったため、彼の事を快く思っていない人々が多くいました。公孫度は自分の事を良く思っていない人々を弾圧して、殺害し、反対勢力を一気に黙らせてしまいます。
遼東の民衆や有力者達は公孫度に恐れをなして、彼の統治に渋々従うことになります。公孫度は遼東を恐怖で支配することに成功すると鳥桓を討伐するため軍勢を出陣させてある程度の成果を得ると、高句麗討伐戦へ向かいます。公孫度は高句麗討伐戦もそれなりの成果を得ることに成功すると東來郡を支配し、勢力を拡大。
こうして公孫度は遼東一帯の支配者として力を築き上げた後、亡くなってしまいます。
時勢を見極めた公孫康
遼東一帯を恐怖政治で治め、鳥桓、高句麗などの異民族討伐で力を示した公孫度。彼の死後、跡を継ぐことになったのは公孫康です。公孫康は河北の覇権を握っていた超大国・袁家と仲良くしていました。
ですが、袁家の当主・袁紹が華北の戦いで曹操に敗北。その後袁紹が亡くなり、袁紹の息子達が袁紹の跡を巡って争い始めます。曹操は袁紹の兄弟たちの争っている隙に、彼らを討伐して河北を吸収してしまいます。
袁紹の息子・袁尚と袁煕は鳥桓族の元へ逃亡し、曹操軍と決戦をするも敗北。袁尚・袁煕の兄弟は仲の良かった公孫康の元へ逃げてきます。公孫康は河北一帯を手中に収め、中華の大勢力となった曹操に逆らってしまえばどうなるのか思慮を巡らせます。その結果、公孫康は袁尚・袁煕兄弟を殺害して、曹操に彼らの首を送って敵対する意思の無い事を示します。
曹操は公孫康が敵対する意思の無い事を確認すると速やかに軍勢を撤退させていきます。公孫康の行動によって遼東一帯は戦果に包まれる事無く、今まで通り、遼東一帯を統治していくことになります。
父と兄の過失なく治める公孫恭
公孫康には公孫淵と公孫晃の二人の息子がいました。公孫康が亡くなる時、二人の息子は幼くて跡を継ぐ適齢でなかったため、公孫康の弟・公孫恭が跡を継ぐことになります。
公孫恭は公孫康の跡を継ぐと曹操との関係を良好な状態で維持しながら、国内において大きな過失なく遼東を統治。公孫恭は曹丕が魏の初代皇帝へ就任した際、車騎将軍などの地位を与えられ、取り立てられることになります。
地位をはく奪され幽閉される
公孫恭は史書に記されるほどの大きな過失なく遼東一帯を治めていました。ですが、公孫恭は公孫康の息子・公孫淵によって遼東の主の地位を奪われてしまいます。
どうして公孫恭は公孫淵に遼東の主の地位を奪われてしまったのでしょうか。正史三国志魏書によれば、公孫淵が公孫恭に国を治める資質が無いとの理由で、彼を脅迫したからです。こうして公孫恭は遼東の主の地位を剥奪されてしまいます。
更に公孫恭は新しい遼東の主・公孫淵が遼東の主として君臨している間、ずっと城内へ幽閉されてしまいます。その後公孫恭は諸葛亮のライバルとして知られる司馬懿が公孫淵を討伐した時、長きに渡る幽閉状態から解放されることになります。その後公孫恭は幽閉状態から解放後、歴史書に記載されず、姿を消してしまうのでした。
三国志ライター黒田レンの独り言
正史三国志の作者・陳寿は「国を治める資質に乏しい人物」と評価しています。ですが、レンは公孫恭が遼東国内で大きな事件を起こさなかった事から、それなりに政治力を持った人物だったと思います。
しかし公孫恭は公孫淵に脅迫されて、遼東太守の位から追い落とされてしまいます。公孫恭は陳寿が言うように「国を治める力を持っていなかった」から遼東太守の位から追い落とされたのか。
それとも公孫淵が遼東太守の位を望んでいた為、公孫恭から遼東太守の位を奪い取ったのか。
皆様はどちらが正しいと思いますか。
参考文献 正史三国志魏書等
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