周瑜の跡を継ぎ、軍事外交両面において功績を残した魯粛。みなさんは彼の息子のことをご存知でしょうか。
その名を魯淑といいます。彼は父・魯粛に匹敵する呉の功臣ですが、一体どのような人だったのでしょうか。
今回は魯粛の息子・魯淑を紹介したいと思います。
「魯淑 人物像」
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張昭の息子から高く評価される
孫権は兄・孫策の跡を継いで孫家の当主として君臨。この時、孫策は孫権がまだ若年だったことを心配して、周瑜と張昭に孫権の補佐を頼みます。
周瑜と張昭は一緒に孫権を補佐して、孫呉をしっかりと支えていきます。
だが周瑜は若くして亡くなり、周瑜死すの報告を受けた孫権はとっても悲しんだそうです。周瑜には二人の息子がいました。長男・周循は父に似て優秀ですが、若くして亡くなり、次男・周胤は周循とは違い罪を犯し平民へ落とされた後、亡くなってしまいます。
張昭にも二人の息子がいました。一人目は張承と言います。彼は非常に優秀で才能があり、異民族を降伏させて精鋭兵を作り上げることに成功します。更に張承は人物鑑定に優れていました。張承は謝景や蔡款たちがまだ無名で、不遇時代をかこっていた頃に「彼らは国家になくてはならない人材となるだろう」と人物鑑定し抜擢。
その後謝景や蔡款は孫呉になくてはならない人物として成長し、高い位へと大出世することになります。このように張承は人物の才能をしっかりと鑑定する能力に秀でており、魯粛の息子・魯淑も彼に鑑定してもらいます。
張承は魯淑を鑑定すると「君はいつの日か、私と同じくらい出世し、呉の拠点を守るようになるだろう」と高い評価をされます。その後張承は魯淑が出世する前に亡くなってしまいます。ですが、張承の人物鑑定は外れることなく、しっかりと当たることになります。
呉の国境を守る魯淑
魯淑は(258年~264年)頃、昭武将軍・武昌督・都亭侯の位を拝命することになり、呉の重要拠点の一つである武昌を守ることになります。その後魯淑は武昌から移り、夏口督へ移動することになりますが、この地も呉の重要拠点の一つにとなっており、しっかりと守っていたそうです。
厳正な統治する魯淑
父・魯粛は外交と軍事だけでなく、政治にも優れた才能を発揮していました。魯淑も父に似て行政面に優れた才能を発揮します。正史三国志によれば魯淑は任地へ赴いた際、厳正な統治をして人心を安定させるため、赴任地の治安を改善。
魯淑が厳正な統治をしたことにより、民衆がしっかりと農業に励むことになり、農作物の獲得量を増加させることに成功します。また魯淑は素早く物事を処理する能力に優れていたそうです。
軍事面ではあまり活躍できなかった魯淑
魯淑は上記で紹介したように行政面や軍を用いて国境を守る点においては素晴らしい力を発揮した人です。ですが、軍勢を率いて敵と戦う戦術面を苦手としていました。「晋書」によれば、魯淑は呉の薛瑩と一緒に大軍を率いて魏へ侵攻します。
魏の将軍・王渾は軍勢を率いて、魯淑と薛瑩率いる呉軍を打ち破ることに成功。このように魯淑はあまり軍勢を率いて戦うことについて得意な人ではなく、この点父・魯粛とは得意分野が違っていました。
三国志ライター黒田レンの独り言
今回は魯淑について紹介しました。魯淑は孫権・孫亮・孫休・孫晧の四代に仕え、孫晧の時代に亡くなってしまいます。もし魯淑が陸凱や陸抗達と一緒に孫晧政権を取り仕切っていれば、孫呉政権を長く持たせたかもしれません。
このように考えると孫晧の時代には呉の名臣と呼ばれる人々が居なくなり、軍事・政治面においてかなり人材に乏しく厳しい状況だったのかなと思います。
■参考文献 正史三国志呉書など
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