身分にこだわらず、多くの人材を集めた事で秦王政の中華統一の事業は完成します。しかし、始皇帝と名乗った政(せい)は、自身を神に等しいと錯覚し、人民を虐げ、家臣の諫言を反逆と考えるようになります。人民を守る木陰になるべき大木は、より自分を大きくしようと中華のエネルギーを吸いあげ、中国人民は飢えと労役に苦しむのです。
この記事の目次
天下を統一した政、始皇帝と名乗る
紀元前221年、六国を滅ぼして中華を統一した秦王政は、新しい支配者に相応しい称号を制定するように命じました。今までの王は、六国が名乗っていた事もあり唯一絶対の存在ではありえないそのように始皇帝は考えていたのです。そこで採用されたのが古の世界の神である三皇とそれより後代の人間の名君である五帝を合わせた、三皇五帝から一字づつを抜き出した皇帝でした。
これは政が、これらの三皇五帝を合わせた業績を上げたという意味で付けられ、秦王政は自ら最初の皇帝、始皇帝(しこうてい)と名乗ります。始皇帝は、王の没後に臣下がつける王の謚(おくりな:文王や武王、幽王など)を家来が主君を評価する無礼な行為であるとして、以後許さず、自分以後の皇帝は2世皇帝、3世皇帝とすると宣言します。ここにも、絶対者として他者の批判を許さない始皇帝の性格が見え隠れします。
始皇帝、封建制を廃止し、中央集権制を敷く
始皇帝は、重臣の李斯(りし)の提案で新時代に相応しい統治システムを採用します。それは、今まで、各地に置いていた王や公を廃止して、新たに郡県制を敷いて中央から派遣した役人に政治を行わせる方法です。周の時代までは、諸候や王族に各地に土地を与えて、そこを支配させていたのですが、それでは、数世代経過すると、王族や諸候が土地に土着して中央の命令よりも土地の利害を優先するようになる欠点がありました。
そこで始皇帝は、全国を36の郡に分け、その下に県、郷、里と次第に小さな行政区域を設置しました。中央からの役人は大小問わず、数年の任期で異動になり、軍権も与えられていないので土着して権力を奮う事もありません。こうして、全ての権力が皇帝に集中する事になり皇帝の力は極大になりました。これにより、周以来の封建国は消滅し、各国の民は秦人民になりました。今でも中国をChinaと呼ぶのは、この時の秦(chin)が訛ったものだと言われます。ここに中国人という概念が誕生し中国は一つであるという考えが共有され、以後の中国は分裂しても統一するという過程を取るようになります。
始皇帝の経済政策
中国が七雄に分かれていた頃は、貨幣も度量衡も、馬車の車輪の幅も、計算方法も全てバラバラでした。中国が秦により統一されて流通が飛躍的に活発化すると、そのマチマチな社会システムが大きな問題になるようになります。そこで始皇帝は、貨幣を統一して、度量衡、(長さ、体積、質量の計算法)の標準を決め、馬車の車輪の幅を統一していきました。さらに、道路も拡張・伸長し、霊渠(れいきょ)と呼ばれる中国大陸の南北を繋ぐ運河を掘削するなど、咸陽を中心に中国が一つになるように整備がされます。
そればかりでなく、始皇帝は各地で少しずつ違っていた文字の書体も篆(てん)書体で統一します。これにより、中国のどこにいても決まった文字で決まった内容が伝えられるようになり、情報の共有化が容易になりました。始皇帝の経済や文化政策は皇帝が中国を治めやすくする為でしたが、その恩恵は始皇帝個人を超え、その後、二千年、無数の人々に膨大な利益をもたらす大事業として歴史にプラスの評価をされます。
人民を酷使する大土木工事
始皇帝は太陽のような人物です、その人物が遠くに見える時には、威風堂々として見え、畏敬の念さえ持ちますが、近づいてくると、多くのものを燃やし尽くして、何も残さない暴君に過ぎなくなります。道路を拡張したり、運河を掘ったり、人民の益になる仕事をした反面で、始皇帝は、驪山陵(りざんりょう)という巨大な墳墓や、阿房(あぼう)宮という大宮殿、そして、匈奴(きょうど)の襲来に備えるという理由で万里の長城の建設を始めます。
それらは概ね、自分の欲望の為であり、動員された人民も百万名を越えるという空前絶後の大事業でした。ようやく戦争が終わり、泰平の世を楽しめると信じた人々は、重税と強制労働に追いまわされ、疲れ果て激しい不満を持っていきます。
始皇帝、天下巡遊
始皇帝は、天下統一2年目の紀元前220年、天下を巡遊する旅に出ます。その目的は、第一に中華を統一した偉大な皇帝の姿を全土の人民に、見せる事、そして、もう一つには周の時代に途絶えた封禅(ほうぜん)の儀式を行い自身が周の後を継ぐ、正当な後継者である事を天に報告する為でした。封禅は、泰山において自己流で行われましたが、全国への顔見せは、逆に皇帝といえど、ただの人間に過ぎないという認識を人民に抱かせ、また、始皇帝の巡遊には、道路の拡張など重労働が課せられたので人民の憎悪を始皇帝に集中させただけでした。
始皇帝、不老不死の妄想に取りつかれる
一度目の巡遊を終えて、封禅を成し遂げた始皇帝は、成し遂げる全ての事を成し終えて、死への恐怖に取りつかれるようになります。始皇帝の父は在位3年で若くして死んでおり自分の命も長くないのではないか?という恐怖心に苛まれたのです。
そこで、始皇帝が縋ったのは永遠の命を持つと言われた仙人達でした。もちろん、本当の仙人などいなくて、仙人にツテがあると言う、怪しい道士や方士と呼ばれる人々ですが、死の恐怖心から、始皇帝は、彼等の言うままにお金を出し、仙人の造る仙薬を求めるようになります。
始皇帝と徐福伝説の関係
そんな取り巻きの1人に徐市(じょいち)という者がいました。様々な嘘と詭弁を駆使しても仙薬が手に入らない徐市は、誅殺を恐れて策を巡らし東方の海上に仙人の住む山があると嘘をついて始皇帝から金銀財宝と童男・童女を1000名与えられると、そのまま船出して戻りませんでした。徐市は日本に辿りついて王になったと言われ、徐福伝説の元になります。
関連記事:日中交渉は卑弥呼と魏だけではない!?
関連記事:不老不死の妙薬を求めて? 孫権の倭国(日本)遠征計画
始皇帝、自分に逆らう儒者を殺し、書物を焼き捨てる
始皇帝の政治が斬新で新しいものである為に、古い時代の聖王の政治への回帰を求める儒者を中心とする学者は、その政治を批判していくつかの提言をしました。それは、「自らに間違いなど無い」と思うに至った偏狭な始皇帝の不興を買うには充分でしたが、これに方士や、道士のような怪しげな者達の悪口が加わります。始皇帝の不老不死の要望に答えられない方士の盧生(ろせい)と候生(こうせい)は誅殺を恐れて逃亡、その途中で始皇帝の悪口を言いふらしました。
始皇帝は、これに激怒し、学者達の中にも盧生や候生と同調したものがあるのでは?と疑い厳しい尋問を行いました。学者から見れば、とばっちりですが尋問の厳しさから逃れる為に学者達は、お互いに罪をなすりつけ合うなどしていき検挙されたものは460名という多数に上りました。その460名を始皇帝は抗(穴埋め)して殺してしまいます。さらに、それ以前には秦の政治に批判的な書物を集めて燃やして捨てました。これら二つを合わせて焚書抗儒(ふんしょ・こうじゅ)と言います。
始皇帝の長男で、皇太子だった扶蘇(ふそ)は儒学に理解がある人物であり、学者達を擁護して始皇帝を厳しく批判しましたが、怒った始皇帝は、扶蘇を北方の蒙恬(もうてん)将軍の元に左遷します。
関連記事:墨家(ぼっか)が滅んだ理由と創設者 墨子はどんな思想だったの?
関連記事:キングダム時代に活躍した法家 商鞅と韓非はどんな人?
関連記事:キングダムの時代に開花した法家の思想
度重なる暗殺未遂、猜疑心の塊になる始皇帝
始皇帝は皇帝に即位して以来、少なくとも三度、暗殺の危機に直面します。
最初は、暗殺者荊軻(けいか)の友で筑の名手だった高漸離(こうぜんり)二回目は後に漢の高祖劉邦の軍師となる張良(ちょうりょう)に雇われた力士に巡遊中に30キロの鉄のハンマーを投げられ車を大破された事もあります。
この時、始皇帝は別の車に乗っていて助かりました。三度目は始皇帝がお忍びで4人の共だけを連れて夜間外出を行った時に襲撃を受けますが、武人達によって賊は取り押さえられます。
いずれも未遂でしたが、始皇帝は度重なる暗殺に怯え、次第に自分に近づける人間を制限するようになります。その結果、趙高(ちょうこう)のようなお気に入りの宦官だけが、常に始皇帝の側にいるという状態になり他の家臣は、始皇帝と接触すら出来なくなったのです。
関連記事:【キングダム ネタバレ注意】史上最悪の宦官 趙高(ちょうこう)誕生秘話
始皇帝死す
始皇帝の最晩年になると、始皇帝の死を予言する隕石に刻まれた文字や、秦が近々滅びるという噂が人民に広まり咸陽にも届くようになります。始皇帝は、巡遊しながらも、海神と戦う夢を見ては、海で弩を放って、大鮫を仕留めたり、金陵(南京)で500年後に天子が現れるという予言を聞くと山を削って丘を切り、天子の運気を払おうとします。
それは本人は大真面目でも周囲からは滑稽そのものでした。残り少ない寿命を燃やして、秦と自分の永遠の命を求めた始皇帝ですが、紀元前、210年、五回目の巡遊の最中に沙丘で死にます。49歳、不老不死でも若死にでもない当時の人間の平均寿命を全うしての最後でした。
三国志ライターkawausoの独り言 始皇帝の性格とは?
始皇帝の性格は、非常に猜疑心が強く一度人を疑うと、それを解く事がない、と執念深い半面で、自分に利益をもたらす人間には、それが奴隷でも頭を下げてへりくだり助けを請うという強かさを持ち合わせています。一方で、恩義などというものを感じる事はなく、どんな功臣でも不要になるとあっさり殺すという極めて酷薄非情な面があります。また違う面では、誰も及ばない程に仕事熱心でもあり、重要案件は、全て自分で決済して、70名もいた学者は無用の長物であったとも言われます。
子供の頃の誰も信じられない苛酷な経験が、始皇帝の特徴である強い猜疑心を産んだとも言えますが、始皇帝の乱行については、彼が不老不死の霊薬として水銀を服用していた為という説もあります。水銀を服用すると、性格の起伏が激しくなり、大笑いしていたかと思うと、次の瞬間には激怒するというような事が起きるようです。
人民を虐げ、思うがままに生きた始皇帝の悪行を考えると、手放しで褒める事は出来ないのですが、一方で、始皇帝のような我と個性が強い人でないなら、中央集権制をはじめとする斬新で大胆な改革は出来なかったでしょう。やはり、始皇帝は時代の要請で産まれるべくして生まれた英雄なんでしょうね。
関連記事:始皇帝が中国統一後、なんで中国全土を巡幸したの?全巡幸をストーキングしてみた