後漢王朝に崩壊に繋がるダメージを与えた黄巾の乱。
その反乱の中心になったのは、太平道という教えを説く新興宗教の教祖張角でした。
当初は、まるで流行しなかった太平道ですが、幾つかの要因が重なり百万以上の信徒を抱える大教団になっていきます。
巨大教団に成長した太平道ですが、その成功要因には、虐げられた弱者を救済する太平道のセーフティネットがあったのです。
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この記事の目次
後漢を崩壊に導いた2つの要因
従来、後漢王朝の崩壊には、霊帝期に始まる売官や党錮の禁によって行政システムが宦官の手中に入り、貧官汚吏が蔓延った事が言われてきました。
しかし王朝というのは多かれ少なかれ腐敗しているものであり、そればかりを理由にして後漢が倒れた理由にするのは無理があります。
最近の研究では、後漢王朝を崩壊に導いたのは、以下の2つの要因が影響していたようです。
①異常気象
②豪族による土地の専有化
このたった二つの要因が後漢の崩壊に繋がったというのです。
では、詳しく見ていきましょう。
地球の寒冷化が社会不安を煽った
①の異常気象は、地球の寒冷化で紀元100年頃、後漢の中期頃から顕在化してきたようです。
後漢書には、永初4年(西暦107年)の記述として、
天下に飢餓が蔓延している。
人々は競うようにして盗賊になっている。
豫州では食い詰めた人間が万余も盗賊になっている。
このように記述しています。
それが辺境の涼州や幽州なら何も不思議はありませんが、豫州というのは、曹操の生誕地である礁県がある中原の中心地であり
袁紹、袁術、張魯、陳羣、呂蒙、荀彧、許靖等、三国志を彩る人々を輩出。そして、生産と物流の拠点を周辺に持つ土地です。
そこに飢餓が蔓延し、万余の人々が盗賊になったというのですから異常気象は凄まじいものでした。
三国志の登場人物がまだ影も形もない頃から始まった寒冷化は、それから80年以上経過しても止まらず、
河北の袁紹は兵士に食糧を配給できず桑の実を食べて飢えをしのいだり、淮河に駐屯していた袁術も、食糧調達がままならずに、
ハマグリやタニシを兵士に支給していると正史三国志には記録されている有様でした。
袁紹や袁術の軍でさえ、そうなのですから一般の農民となれば土地にしがみついてもどうにもならず、土地を捨て盗賊になったり、
豪族の使用人に身を落としたり、都市に仕事を求めるなどして土地を離れていき、増々食糧生産能力が低下する悪循環が繰り返されていったのです。
異常気象の中で富を増やしていく豪族達
多くのケースでは貧困国というのは全ての国民が貧しい事を意味しません。
富が極端に偏在して、一部が巨万の富を積んで大多数の人々が喰うや食わずそのような状況が固定している国を貧しいというのです。
後漢王朝の場合もまさにそうであり、寒冷化によって土地を離れた農民がいる一方で、豪族層は、こうして手放された土地、
あるいは農民を借金のカタに取り上げて土地の収奪を進めていったのです。
それが②の豪族による土地の専有化です。
前漢時代、豪族は秦末の動乱で多くの豪族が生まれた事で危険視され、法によって権力を制限されていた豪族ですが、
王莽による新末の動乱ではこれら豪族が、王莽軍や農民の反徒である赤眉軍を倒す兵力を供出する事になります。
後漢を建国した光武帝、劉秀自身がその豪族の出身者であり彼は極力豪族と協調した政権運営を心掛けたので豪族は勢力を伸ばし
後漢が異常気象で衰えると、土地を拡大し零細農民を支配下において私兵化して行ったのです。
豪族が地縁社会を壊し太平道は疑似血縁共同体を組織
後漢の学者、崔寔によると豪族の横暴は以下のようでした。
豪族どもは莫大な財産を貯めこんでいる。
屋敷は広大で領地も広く、まるで王侯のような豪勢な暮らしだ。
連中は無頼漢を金で用心棒として雇い弱い人々を脅し、そればかりか用心棒どもは、
俺達は自由に人を殺してもいいのだと怪しからぬ言葉を吹聴してまわっている。
このような豪族の横暴に後漢王朝はまるっきり無策であり、自ら土地を捨てたり、土地を追われた人々は家族もバラバラになり
地縁・血縁社会から切り離される事になります。
無縁のままで彷徨う弱い人々にセーフティネットを提供したのが外ならぬ太平道だったのです。
張角が共同体を再編成し強力な黄巾賊が誕生
後漢書皇甫嵩伝によると、張角の所業として以下の記述があります。
遂置三十六方 方猶將軍號也 大方萬餘人 小方六七千各立渠帥
つまり、中華八州に三十六万の拠点を置いて、それぞれを方と名付けて大きいものでは万人余、小さいものでは六七千を率いさせて
渠帥(リーダー)を任命して統率させています。
これは、信者同士が元々共同生活を送っていたのを軍に再編したと考えられ張角は、太平道の教義を核に、
信者を一カ所に集めて共同生活をさせ疑似血縁家族を作り出したと考えられます。
太平道には、貧しい人々ばかりではなく、死や病気の恐怖におびえる大商人や洛陽の宦官まで入信していたので、
彼らの寄進が、貧しい信者を食べさせる原資になったのでしょう。
本来なら、後漢王朝が敷くべきセーフティネットを太平道が用意した、それこそ太平道が黄巾として後漢に対抗しえた秘密でした。
太平道の教えを信じた信徒達は、同じく教義を信じる仲間を家族と信じて漢王朝に叛いたのです。
三国志ライターkawausoの独り言
黄巾賊は本格的な戦争を長年経験していない正規軍相手に当初連勝します。
それを受けて朝廷は党錮の禁を解き、軟禁状態の豪族名士を呼び戻すと共に地方豪族からの義勇兵を集って兵力を強化しました。
しかし、皮肉な事に、これら豪族の私兵も元は土地を追われた農民達でした。
黄巾の乱の主体は、黄巾賊へと流れた農民と豪族の私兵になった農民との理不尽な激突でもあったのです。
参考文献:史実三国志「演義」「正史」さらに最新発掘で読み解く、魏・呉・蜀
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