演義ですと劉備が漢中王の位に就任した際、関羽、張飛、趙雲、黄忠と同じく五虎将軍の一人に列せられ活躍しています。
そして蜀の天才軍師として名高い諸葛孔明。諸葛孔明は関羽や張飛、趙雲らの諸将を指揮した事はありますが、馬超を指揮下に入れて戦場で戦った事があるのでしょうか。
また彼と一緒の戦場で戦った事はあったのでしょうか。
「馬超 孔明」
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成都攻略戦で一緒に戦う孔明と馬超
三国志演義では「錦馬超」として知られ、許褚や張飛と互角の一騎打ちを繰り広げた武勇の持ち主・馬超。彼は潼関の戦いで曹操軍に敗北。馬超は曹操軍に敗北後、領地になっていた涼州で暴れまわるも、曹操軍や楊阜らの反撃にあって涼州で居場所を失います。
こうして馬超は涼州から逃亡し、漢中で一大勢力を築いていた張魯の元へ身を寄せることになります。その後馬超は張魯の元を離れ、劉備軍に加わることになります。馬超が劉備の元へ加わったとき、ちょうど成都攻略戦が行われている最中でした。この時初めて彼と孔明が一緒の戦場で戦うことになります。
漢中攻防戦で共に戦う諸葛亮と馬超
劉備は益州を手に入れると曹操の領土となっている漢中を攻略するため諸将を連れて出陣。漢中は法正の軍略のおかげで奪うことに成功します。曹操は劉備に漢中を奪われた事を知ると自ら漢中を奪い返すべく出陣。
この時馬超は諸葛孔明と一緒に漢中を奪い返すために出陣してきた曹操軍を撃退するため、同じ戦場で戦っています。この時も諸葛孔明は五虎将軍の一人である馬超と一緒に戦場を疾駆したわけではありませんが、参謀役として参加した孔明の指示を受けて馬超が戦っていたと思われます。
そしてこの漢中攻防戦以降、馬超と諸葛孔明が一緒の戦場で戦うことはありませんでした。なぜ馬超は漢中攻防戦以降諸葛孔明と一緒に戦わなかったのでしょうか。その理由は馬超が早くに亡くなった事が大きな原因と考えられます。
正史三国志では一緒に戦った事はあるの??
三国志演義を元に二人が同じ戦場で戦ったことがあるのかを紹介しました。ここからは正史三国志を元に二人が同じ戦場で戦ったことがあるのかを紹介してきたいと思います。正史三国志蜀書・馬超伝から見ていきたいと思います。
それによれば、馬超は劉備が成都攻略戦の最中、劉備の配下として加わります。このことから諸葛孔明と一緒の戦場に参加していた事がうかがえます。ですが、この成都攻略戦以降、馬超伝によれば諸葛孔明と一緒の戦場で戦ったもしくは諸葛孔明の指示を受けて戦場で活躍した等の記載はありませんでした。
また正史三国志蜀書・諸葛亮伝にも諸葛孔明が馬超を指揮下に入れて戦いに臨んだとの記載もありませんでした。このことから正史三国志では馬超と諸葛孔明が一緒の戦場で戦ったことがあるのは成都攻略戦ただ一回だけとなります。
そして諸葛孔明が馬超を指揮下に入れて戦場に臨んだ事は一度も無かったのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
馬超は劉備配下に加わった時、涼州で曹操に反旗を翻したような精彩をほとんど欠いていたように思われます。ですが、もし馬超が魏を討伐するために諸葛孔明が起こした第一次北伐戦まで生き残っていれば、街亭を守る将軍に馬謖を任命するのではなく、歴戦の勇将である馬超を用いる可能性があります。
馬超を街亭の守りにつかせれば、魏軍から街亭を守り抜くこともできたでしょう。また馬超を街亭の守りに使わず、涼州各地の平定戦に用いれば、諸葛孔明率いる蜀の本隊が東へ向かってまっすぐ進め、蜀が有利な戦況を作り出せたかもしれません。
いずれにしてもレンは馬超が若くして亡くなかったことが悔やまれてならないと感じるのですが、皆様はどのように思いますか。
■参考文献 正史三国志蜀書など
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