孟達は後漢(25年~220年)末期から三国時代(220年~280年)初期の将軍です。
かつては劉備に仕えていましたが、関羽に援軍を送らなかったことで劉備の怒りを買い、魏(220年~265年)に亡命します。
幸いにも魏では重用されましたが、黄初7年(226年)に曹丕が亡くなったので魏では孤立しました。
新しい君主は曹丕の息子の曹叡です。以前のように重用されるとは思わないと悟った孟達は蜀に戻る決意を固めます。今回は小説『三国志演義』をもとに孟達の謀反と最期を解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています
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孟達の謀反プラン
蜀(221年~263年)の建興6年(228年)に諸葛亮は魏への第1次北伐を開始します。蜀は各地で勝利していき姜維もこの時、蜀に降伏しました。
様々な情報が魏の新城太守である孟達の耳に入りました。彼はもとは劉備配下の将軍です。後漢建安24年(219年)に関羽が曹操と孫権に挟撃された時に、援軍を頼まれましたが部下が少数しかいないことを理由に断っていました。
おかげで関羽は戦死。劉備と張飛から怒りを買います。処罰を恐れた孟達は魏に亡命しました。先述したように魏の曹丕は孟達を可愛がってくれましたが、この時点で曹丕はこの世の人ではありません。
新しい主人のもとでは寵臣は変わるものです。昔の寵臣は左遷の可能性もあり、一歩間違えれば処刑。不安になった孟達は「蜀に帰ろう」と決意します。劉備も張飛もすでに鬼籍に入っているので、関羽の事件は時効成立と考えたのでしょう。
孟達はすぐに申耽・申儀の兄弟を呼びました。この2人も孟達と一緒に魏に降伏した仲間です。孟達は3人で挙兵して魏の首都である洛陽を攻撃。曹叡を討って蜀に帰る手柄にすることを提案しました。申耽・申儀は「分かりました」と言って帰ります。
だが、帰路で2人は「冗談じゃない。確かに曹叡様は前の曹丕様に比べたら、待遇が悪いけどそのくらいで謀反なんて、やるわけねえだろう」と愚痴をこぼします。
考えた末に2人は密告を決意します。さて、2人の行き先は・・・・・・
余裕の孟達 心配の諸葛亮
一方、蜀では孟達から手紙がきて読んでみれば洛陽を攻撃してくれるので、諸葛亮や他の将軍は大喜び。
「これで戦が早く終わる!」「こっちは被害が少なくて良かった!」と大宴会。
ところが、しばらくすると左遷されていた司馬懿が復帰したという報告が入ります。聞いた諸葛亮はびっくり!司馬懿に用心するように孟達に手紙を書きました。
孟達は諸葛亮の手紙を受け取ると、「諸葛亮殿のおっしゃる通り、司馬懿に用心しないといけません。でも、兵士の準備をするには手続きだけで1か月かかります。司馬懿がすぐ来るなんてありえません」と余裕の返事。
使者からそれを聞いた諸葛亮は孟達の考えを「浅はか」と思いました。話は変わって司馬懿。彼のもとに申耽・申儀から手紙が来ます。内容は孟達の謀反です。びっくりした司馬懿は曹叡に対しての手続きもとらずに軍を進めました。
孟達の最期
孟達は出陣の準備を整えていたら、「出て来い」と声が聞こえてきました。城壁から見ると、それは司馬懿軍の先鋒の徐晃でした。発覚したと悟った孟達は、徐晃を弓矢で射殺して先鋒を壊滅させます。
徐晃を討ったのはよいですが、今度は司馬懿に城を囲まれました。「諸葛亮の言った通りだった」と後悔した孟達ですが、すでに後の祭り。
すると「孟達殿、救援に参りました!」と申耽・申儀の軍勢が司馬懿軍の打ち破って現れました。助かったと思った孟達は2人を出迎えました。しかし、「覚悟!」と叫んだ申耽・申儀によりあっという間に殺されてしまいました。
三国志ライター 晃の独り言 都会が苦手だった孟達?
以上が『三国志演義』をもとにした孟達の謀反の話でした。正史『三国志』の孟達の謀反は申耽・申儀、孟達の身内が非協力的であったことから失敗したようです。
仲間や身内は協力しないのに、なんで1人だけ蜀に帰りたかったのでしょうか?もしかしたら孟達には、都会である魏の暮らしが合わなかったのかもしれません。
曹丕には仕えて可愛がられましたけど、やはり無理をしていたのではないでしょうか?だから、曹叡に代替わりしたことを契機に懐かしき故郷に帰ろうとしたのではないでしょうか?
あくまで想像の域に過ぎませんが・・・・・・
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