曹操の生涯最大の悪行である徐州虐殺、その犠牲者は数万とも数十万とも言われますが、大量の犠牲者とそれに十倍する難民を生み出しました。
その為、徐州人には反曹操の人物が続出し、事あるごとに曹操の邪魔をし遂には中華統一を阻止してしまったのです。
まさに因果応報、今回は曹操絶対殺すマン徐州人の系譜を見てみます。
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この記事の目次
曹操の虐殺があったのは二度目の侵攻
正史三国志武帝紀によると、曹操の徐州侵略は二度行われています。
一度目は西暦193年の秋で十余城を陥落させていますが、この時、陶謙は城を堅く守って応じませんでした。
曹操は翌年の春に遠征から帰還しますから、5カ月くらいは徐州にいたようです。
しかし、武帝紀の記述に関しては、この時の侵攻には「虐殺」の二文字が出てきません。
曹操は、194年の夏、留守を荀彧と程昱に任せて再び徐州に攻めこみます。
これが二度目の徐州侵攻になり、曹操は破竹の勢いで五城を抜いています。
陶謙は、今度は公孫瓚から劉備の援軍を得て、さらに自軍の将軍の曹豹と共に郡治である郯の東に布陣し曹操を迎え撃ちますが破られます。
曹操はさらに襄賁を抜いて帰還しますが、曹操軍の行く先々では虐殺が甚だ多かったと記録されています。
どうして最初の侵攻には虐殺の二文字が出ず、二度めに登場するのか?
あくまで推測ですが、徐州人に曹操に対する反発が非常に強くなり住民レベルで猛烈な抵抗が起きたのではと推測します。
曹操も、反抗的な住民を許すと背後を襲われる危険もあるので、禍根を断とうとして、無差別な虐殺に転じたかも知れません。
ただ、これは武帝紀の記述に関してであり、一度目に虐殺があったとする記述もあります。
曹操の被害にあった徐州の地域
徐州虐殺は有名ですが、具体的にどこが被害にあったか?はあまり知られていません。
そこで、はじめての三国志特製地図の出番です。
徐州虐殺については、武帝紀、荀彧伝、陶謙伝で内容が異なっていて時間軸もよく分からないのですが、被害を最大として考えると
曹操は、最初に彭城国に侵攻して、董卓の動乱を避けて彭城の城外に負郭を造って住んでいた各州の避難民を直撃して殺戮しまくり、
死体の為に泗水が堰き止められ犬もいなくなったというのが最初のようです。
可哀想ですが、最初に曹操軍に殺戮されたのは、黄巾の乱や董卓の騒乱で家を失い、徐州に逃げてきた避難民でした。
ここに逃げて来たのが悪いといえば身も蓋もありませんがやりきれない話ですね。
二回目の侵攻では曹操は、東海郡に入り郯県で曹操を迎え撃った劉備と曹豹を撃破。
郯県と襄賁を蹂躙し陶謙伝では、さらに瑯邪郡にも侵入したようですが具体的な城名は見えません。
曹操は再度、彭城県に入ろうとしますが、陶謙が軍を武原に出したので侵入する事が敵わず、彭城を回避して下邳に侵入し、
取慮、睢陵、夏丘を陥落させここでも虐殺の限りを尽くし、兗州が呂布に陥れられたという報告を効き
急いで兗州に戻って、定陶から濮陽の呂布を攻撃したようです。
徐州虐殺が曹操の中華統一を不可能にした
さて、一方的殺戮をして、陶謙からろくな反撃も受けなかった曹操ですがその報いは、最終的に曹操の中華統一の野望を阻む事になりました。
最大の原因は、徐州虐殺で被害者になった徐州の人々が反曹の思いを強くしていき、ある人は、荊州に流れて蜀漢の建国に尽力し、
別の人は揚州に逃れて、孫呉の建国に尽力したからです。
曹操の悪行は、後に魏に対抗する蜀と呉の土台作りに徐州の人材を追いやりました。
【反曹の人材】諸葛亮、魯粛、徐盛、歩隲、厳俊、麋竺
特に有名なのは、曹操が攻めこんだとされる徐州の瑯邪郡陽都出身の諸葛亮、さらに下邳国の東成(城)県出身の魯粛でしょう。
この二人は確実に反曹で一致し、赤壁で曹操の野望を砕きました。
同じく瑯邪には、呉の名将の徐盛がいて洞口の戦いでは、一度、呉の船団を暴風雨で失っても諦めずに敗残兵を集めて挽回し
寡兵で魏の水軍を破ったり、偽物の砦を築いて曹丕に呉侵攻を諦めさせています。
東海郡の朐県出身の大商人、麋竺は劉備に私財を投げうって協力し傭兵隊長の劉備を資金面で支え続けます。
もし、曹操の徐州虐殺が無かったら、公孫瓚が陶謙に劉備を援軍として寄こす事もなく劉備最高の金づるとしての麋竺もいないかも知れません。
また、マップでは挙げていませんが、魯粛と同郡の下邳国淮陰出身の歩隲や、曹操の猛威をまともに受けた彭城県出身の厳俊も見逃せません。
歩隲と厳俊と諸葛瑾は、同じく戦乱を避けて江東に移住して交友がありました。
このような人材の力が無ければ、孫呉は建国できたとしても安定を欠いた存在になった事でしょう。
曹操に仕えた徐州人の特徴
これまで解説した通り、徐州人士は虐殺の影響で反曹操の人が多いですが、逆に曹操に仕えた人には王朗や陳登、臧洪、陳琳、陳矯がいます。
王朗は曹操の侵攻を受けた東海郡の人ですが、その頃にはすでに大人であり、また会稽郡に移動していて、実害を受けていません。
陳登は、実害のあった下邳の出身で陶謙、劉備、呂布、そして曹操と主を変えていますが、やはり相応に大人対応であったと考えられます。
孫呉に仕えた張昭は、もっとも被害が大きかった彭城県の人ですが、徐州虐殺に遭遇した時はすでに30代後半であり
曹操に対する個人的好悪より、現実的な対応に関心が向いていたのかも知れません。
臧洪、陳琳、陳矯は徐州出身者でも、曹操が直接侵攻しなかった徐州広陵郡の出身なので、
実際に蹂躙を受けた郡の人に比べると反発が少なかったのかも知れません。
もっとも、臧洪、陳琳は、最初は反曹の人だったのが曹操に敗れて渋々仕える事になった組の人ですけどね。
三国志ライターkawausoの独り言
もっとも反曹になった徐州人は、曹操の被害を直接被った郡の出身であり、その頃は少年か青年の年齢だったという特徴がありそうです。
青少年時代の強烈な曹操に対する悪のイメージが、その後も拭えず、逆に増々強化されたというのは、諸葛亮や魯粛に当てはまります。
そこまで反曹ではない人も、魏ではなく呉に仕えた辺りに、曹操への嫌悪の感情を読み取れると思うのですが、どうでしょうか?
参考文献:出身地でわかる三国志の法則
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