呉(222年~280年)の全軍を担った将軍は周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜が有名です。ドラマやマンガ、ゲームでは亡くなる前に周瑜は魯粛に、魯粛は呂蒙に、呂蒙は陸遜に後事を託すという感じになっています。
周瑜の後継者は魯粛で間違いはありません。ただし、魯粛と呂蒙には全く別の後継者がいたことが分かっています。今回は2人の本当に指名していた後継者について紹介します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
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魯粛の本当の後継者 厳畯
建安22年(217年)に魯粛は亡くなります。一般に知られている話では呂蒙が魯粛から後事を託されたことになっていますが、史実の魯粛は後継者を指名しておらずに亡くなっています。おそらく急死したのでしょう。
そのため全軍の指揮官は空席ポストになったので、孫権自ら指名することになります。そこで白羽の矢が立ったのが厳畯という人物です。厳畯は『詩経』、『書経』、『儀礼』、『礼記』、『周礼』の研究者であり呉では諸葛瑾・歩隲と同レベルの名声を持っていました。
だが、この人事は決して孫権が自ら望んだことではないと筆者は考えています。厳畯の推薦者は呉の元老である張昭です。彼は兄の孫策と母から「後を頼む」と言われた家臣です。当然、人事に口を出さないわけないと考えられます。
この当時の孫権はまだ36歳。政治家としては若手クラス。大人しく言うことを聞くしかありません。
一方、指名を受けた厳畯は気持ちはどうだったのか?
孫権の気持ちを読み取ったのか、最初からやる気が無かったのか分かりませんが、「自分は軍事関係には疎いのでお断りします」と大人の対応をしています。
結局、次の候補に挙がったのが魯粛から才能を認められた呂蒙であり、彼が全軍を任されたという話でした。
呂蒙の本当の後継者 朱然
実は呂蒙にも本当の後継者がいました。建安24年(219年)に荊州の関羽を討伐した呂蒙でしたが帰国すると病気になりました。呂蒙の臨終の間際に孫権は「あなたの後は誰にすればよいのだ?」と尋ねました。
「朱然は決断力・実行力の点でも十二分です。彼が仕事に当たれると考えられます」と呂蒙は返答しました。
呂蒙の死後、孫権は朱然に「仮節」を与えます。仮節とは軍事違反者に対しての執行権でした。このことから朱然が全軍の統率者であると分かります。
ところが不思議なことに、呉の黄武元年(222年)の夷陵の戦いで陸遜が大都督になった時点で仮節は陸遜に渡っており、朱然は別動隊所属となります。彼はこの時点で全軍の統率者ではなくなっていたのです。
朱然は辞退したのか?
全軍指揮官交代理由については、朱然は何も語っておりません。朱然は緊急の場に臨んでも落ち着いた態度であり誰も真似出来ないほどでした。呂蒙の言っていたことは間違っていません。
だが、朱然は性格が空っとしていたようです。おそらく出世などに関しては、あまり興味が無かったと考えられます。だとすると陸遜に交代した理由は、自分から辞退したからではないでしょうか?彼らしいと言えば、彼らしいですね。
三国志ライター 晃の独り言 辞退は朱然の正当性も絡んでいたか?
以上が呉の後継者に関しての記事でした。ここから先は筆者が推測した朱然の辞退について述べてみます。もちろん、確定的な証拠はありません。あくまで筆者の推測として聞いてください。
朱然は呉の名門である呉の四姓(陸・顧・張・朱)の1人として知られています。だが、正確には朱家の人間ではありません。彼は朱治の姉の子・・・・・・「施然」というのが本当の名前です。朱治に子が無かったので朱家に養子に入っただけでした。
要するに「異姓養子」です。曹操の祖父の曹騰が夏侯氏から養子(曹崇)をもらったのと一緒です。ただし、昔の中国では異姓養子は法律違反ということで禁止とされていました。
曹操が官渡の戦いの前に、袁紹配下の陳琳から檄文で父の曹崇のことを「どこの馬の骨か分からん拾われた奴」と書かれます。あれは直接的な悪口だけではなく、「お前の家は法律違反を犯している」と間接的に悪口も述べていたのです。
南宋(1127年~1279年)になると、異姓養子は許容されるようになりましたが、朱然が生きていた時代はタブーです。しかし、ほとんどの人は違反していました。中国では祖先祭祀を絶やさないという考えがあるため、後継ぎの手段を選んでいる暇はありません。
朱然が全軍指揮官を陸遜に交代することになったのは、家の正当性の問題も絡んでいたからではないのでしょうか?
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※参考文献
・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫 2010年)
・石岡浩等編『史料から見る中国法史』(法律文化社 2012年)
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