上司と部下。保身のためにジャイアン・スネ夫のような関係を築く人もいれば、その道を究めるために師匠と弟子のような立派な関係を築く人もいます。
曹操は天下統一という夢のために荀彧・荀攸・郭嘉・程昱たちと信頼関係を築いていきました。彼らとはサポーター・ドリーマー型と言われるものです。しかし曹操挙兵当初に反骨精神を抱き離れていった1人の部下がいました。
名は陳宮。彼は呂布のもとへ行って最後は呂布と運命をともにしました。今回は正史『三国志』と『三国志演義』をもとに陳宮の初登場の話をします。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「呂布 部下」
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この記事の目次
曹操逃亡
中平6年(189年)に政権を掌握した董卓は後漢(25年~220年)の第13第皇帝である少帝を廃位。弟の劉協を即位させました。これが後漢最後の皇帝である献帝です。さらに董卓は曹操を相談相手にしようとしますが、曹操は董卓に仕えたくなかったので名前を変えながら故郷に逃げました。
『三国志演義』では王允から剣を授かり暗殺をしようとしますが、失敗して逃げたことになっています。策士の曹操にしてはお粗末な話ですね・・・・・・
逃げる途中曹操は役人に捕縛されてしまいます。だが、役人は曹操のことを知っておりわざと逃がしました。上記の話は正史『三国志』に記載されていますが、陳宮は全く登場しません。
逃がしたのは陳宮ではない!?
ちなみに、正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『魏晋世語』という史料によると役人は曹操が世を救う天下の英雄であると分かったので釈放したことになっています。やはりこの話にも陳宮は登場しません。
『三国志演義』では役人として登場して、曹操が世を救う英雄であると見破り逃がすことになっています。
『魏晋世語』のウソ
陳宮の登場は横に置いておきます。役人が曹操のことを天下の英雄と考えたのは真っ赤ななウソです。まず1つ目は史料の信ぴょう性。『魏晋世語』は西晋の郭頒という出自不明の人物が執筆したものであり、裴松之が「あてにならぬ本である」と低評価を下しています。
なんで裴松之が正史『三国志』に、そんなヨタ話を掲載しているのかと言うと、彼は自分が読んだ史料を全て掲載する方針だったからです。2つ目は、当時の曹操が置かれていた状況です。この時の曹操は洛陽から全てを放り出してきた無職。しかもまだ挙兵すらしていません。他人から見れば魅力ゼロ!
だから『魏晋世語』は作り話なんです。
呂伯奢事件
『三国志演義』では曹操と陳宮が逃げる途中で、知り合いの呂伯奢の屋敷でかくまってもらいます。だが、刃物の音がしたので曹操と陳宮は呂伯奢の息子たちが自分たちを殺そうとしていると思い返り討ちにします。
ところが、これは2人の勘違いであることが発覚。刃物の音は料理の音でした。やむを得ず曹操と陳宮はその場から逃走しますが、曹操は口封じのために外出していた呂伯奢まで殺害。
曹操はケロリとしており、「俺が天下の人を裏切っても、天下の人が俺を裏切るのは許さん!」と言います。呆れた陳宮は曹操を恐れて離れてしまいます。
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