今回は魏の後半に活躍した王昶(おうちょう)を紹介します。
彼は優秀で、一言で彼を表現するなら「文武を備えた武将」ですね。
「三国志演義」では少ししか、描写が描かれていません。
しかし正史の「三国志」ではかなりの活躍をした人物です。
彼は一体どんな活躍をした武将だったのでしょうか。
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農業の生産量を増加させた教育熱心な父親
王昶は曹丕(そうひ)の太子時代に彼へ仕えます。
曹丕が皇帝になると典農校尉として、洛陽の農業政策を刷新し、目覚ましい実績を挙げます。
この実績が曹丕に認められて、兗州の刺史に任命されます。
その後兗州をしっかりと治め、曹叡が皇帝になると、関内侯として昇進されます。
彼は関内侯に任命されたこの時期に、法律や兵法を勉強し、独自の視点から描いた兵法書や法律に関する本を何冊か出版するのです。
また王昶は教育熱心な父親で、息子や甥の教育を他人任せにせず自ら時に厳しく、時に優しく教育していきます。
司馬懿に推挙され、軍事に携わる
王昶は政治面や学術で実績を上げていましたが、魏の重臣・司馬懿(しばい)の推挙により、軍人へと転向する事になるのです。
彼は対呉戦線の前線である徐州へ赴くよう命令を受けます。
王昶は徐州の防備や政治に励んでおりましたが、荊州方面に転勤になります。
この時征南将軍に任命され、荊州の軍事を司る都督も兼任し、荊州方面から侵攻してくる呉軍の備えとしての重職へ昇進するのです。
王昶は荊州都督の拠点である宛に着任します。
しかし宛から呉の最前線である襄陽までかなりの距離があり、いざ呉軍が襄陽や他の荊州の城へ侵攻した場合、指示を出すのに不便な土地でした。
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王昶は荊州の政治・軍事の強化
そのため、襄陽から近い新野に拠点を移し、水軍の訓練を強化し、田畑を新しく開拓させて、
農業の収穫量を増加させ、有事の際の兵糧確保に努めたのです。
王昶は荊州の政治・軍事の強化に励んでおりました。
そんなある日、司馬懿から「今後の国策についてどのような方針を打ち出せばよいか」と意見を求められます。
王昶は、若者や官僚達の教育と人事などを中心とした五箇条からなる意見書を司馬懿に送ります。
司馬懿は王昶や他の者からもらった意見書を参考にし、国の政策を決定していきます。
呉の征伐で活躍し、魏の重臣へ
王昶は呉の後継者争いが勃発した事を知り「今こそ好機です。呉を討伐する軍勢を出しましょう」と朝廷に上奏します。
魏の朝廷は王昶の意見に賛成し、呉の領内に侵攻するよう、命令を出します。
王昶は新城の太守(郡の長官)である州泰に巫・房陵に駐屯している呉軍を攻撃するよう命令を出します。
また荊州刺史(兵権を持つ統治者)王基に夷陵方面の攻撃を担当させ、王昶は江陵へ大軍を引き連れて出陣しました。
江陵城を守っていた呉の朱績の軍勢を打ち破ります。
王昶は江陵城へたどり着くと、敵を城外におびき出すため、わざと退却をします。
敵はまんまと騙されて王昶軍に追撃を行います。
王昶は退却の途中に設置した伏兵を用いて、呉軍の将軍二人を討ち取りました。
また王基や州泰もそれぞれ勲功を挙げ、三方面同時侵攻作戦は、大成功を収めました。
この功績により征南大将軍・儀同三司(幕府を開く事が出来る重職)に昇進します。
その後司馬師が実権を握ると、陳泰(ちんたい)や諸葛誕(しょかつたん)らと共に魏の重臣として認められることになります。
その後彼は毌丘倹の乱や諸葛誕の乱で活躍し、将軍であればだれもがうらやむ驍騎将軍に任命され、司空の位を兼任して位人臣を極めるのです。
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三国志ライター黒田廉の独り言
王昶は魏の後半における武将の中で、政治・軍事の両方に秀でた武将は数えるほどしかいません。
その中の一人が王昶です。彼は政治・軍事のみに実績を残した人物ではなく、曹丕に仕えた時に様々なジャンルの本を出版します。
一例としては「兵書」や「治論」、「家誠」などの本を執筆した、執筆者でありました。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~♪
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