「蜀の桟道」とは関中から「秦嶺山脈」を越え、成都にたどり着くまでの道を示します。この道は断崖絶壁にへばりつくように作られたもので、とても危険な道でした。
しかし、蜀に入るにはその道を使うしかなく、戦略的に重要な道でもありました。その桟道はどのように作られたのでしょうか?
そしてどのような使われ方をしたのでしょうか?
今回の記事では探ってみます。
桟道の作り方
桟道はとても狭く、人がすれ違うのが困難なほどです。その道は断崖絶壁に穴をあけ、そこに杭を打ち込み、その杭の上に板を敷くことで出来上がります。文章で書くと簡単ですが、実際は工事のための足場などもありません。その為、断崖によじ登り、穴をあけ、また下り、また上り、という風に実に地道に、危険な方法で作られていたようです。
「三国志」では魏の「鄧艾」が蜀攻めの際に桟道を作りながら進軍しました。この時崖から落ち、命を落とすものが多数いたそうです。
関連記事:鄧艾とはどんな人?鍾会に陥れられ衛瓘の指図で殺された鍾会の乱の犠牲者
関連記事:崖から飛び降り蜀に侵攻?鄧艾による成都攻略はどうやって成功したの?
蜀の桟道の成り立ち
桟道の成り立ちは紀元前の戦国時代、秦の恵文王の時代にさかのぼります。当時の蜀には「巴蜀」と言われる国が独自の文化を持っていました。恵文王は豊かな土地を持つ蜀を征服しようと計画していましたが、蜀の地は天然の要害に囲まれ、道も無く、容易に攻めることは出来ません。
そこで恵文王は蜀に友好の証に「黄金の牛」を贈ると持ちかけます。しかし、その牛を運ぶには交通の便が悪すぎます。そこで蜀の王はその牛を運ぶために桟道を整備したのです。恵文王はその道を使って蜀を攻め、征服することに成功します。
劉邦、左遷され桟道を焼く
秦の時代の末期、劉邦の事を警戒する項羽は劉邦を中央から遠ざけることを計画しました。そこで恩賞とみせかけ、蜀の王に任命します。当時の蜀は流刑地とみなされる僻地でした。蜀の地は中国の「左」に位置するので、「左」に「遷す(うつす)」でこれが「左遷」の語源となりました。
劉邦は蜀に赴く際、軍師「張良」の助言に従って桟道を焼きました。これは「攻め上る気はない」という意思表示と、外部への情報の漏えいを防ぐためでもありました。
関連記事:鍾会は司馬昭にとっての張良か韓信か?走狗烹らるとはこのことか!
諸葛亮、桟道を整備し、北伐に赴く
劉備が蜀を支配するようになると再び桟道は重要度を増します。劉備の軍師諸葛亮は魏と戦う「北伐」を度々計画します。その際の軍を動かすには桟道は不可欠でした。その為、諸葛亮は桟道を整備し、北伐を実行に移します。
また、要衝の地である大剣山周辺に「剣門」と言われる関を作り、守りの要としました。その周辺には30里にもわたる桟道が整備されていたようです。
諸葛亮の死後には魏延と楊儀の争いの舞台となりました。魏延は楊儀の動きを封じるために桟道を焼きましたが、結局は殺されてしまいました。
【次のページに続きます】