蜀の諸葛孔明は戦で使う弩(ど)を改良した連弩(れんど)や兵糧を運搬する際に使用する木牛などを開発し、発明家としても大いにその名を轟かせました。
しかし魏には孔明を凌駕する発明家が存在しているのを皆さんご存知でしょうか。その名は馬鈞(ばきん)といいます。彼はいろんな物を発明し、中国の農業技術の発展にも貢献していた天才発明家でした。
この記事の目次
曹叡の献上品である木彫り人形を動くからくり人形へ変身
曹叡(そうえい)はある日、奏楽を演じる木彫りの人形を贈り物にもらいます。曹叡はこの人形を見て馬鈞を呼び「この人形動かしたら面白そうだから、動かしてよ」と無茶なお願いをします。
しかし馬鈞は「分かりました。」と快諾。その後馬鈞は家に戻り、木を削って大きな歯車を作成し、地面に対して水平に置いて水力で動くようにします。その後小さな歯車をたくさん作成。人形も関節が動くよう工夫します。馬鈞は数日後完成した人形をもって曹叡の元へ戻ります。
様々な動きを見せるからくり人形に曹叡は大喜び
馬鈞は曹叡に拝謁すると早速からくり人形を動かし始めます。ただの木彫りの人形だったものが、擲剣(剣を投げて受け取る技)やお手玉、綱渡り逆立ちなど様々な動きを見せます。曹叡はからくり人形の動きを見て大いに満足し、馬鈞に感謝の言葉を述べます。
農業用水車の開発
馬鈞は給事中(きゅうじちゅう=顧問の応対や政治について述べる官職)として洛陽で働いていた頃、城内に畑に適した土地を発見します。しかしこの畑は少し高い位置にあり、水路を作って畑に水を供給するのが難しい地でした。馬鈞はそのため足踏み式の飜車(ほんしゃ)と呼ばれる水車を製作。
子供たちに回させることにします。すると水車は水を自動的に汲み従来の水車とは比べ物にならないほどの効果を上げる事になりました。
飜車は後世に改良され、農業技術の発展に貢献
馬鈞が作った飜車の技術は後世まで残り、改良されます。家畜を使った牛転飜車や風の力を利用して使用する事の出来る風転飜車などに発展し、農業技術に大いに貢献する事になります。
発明家魂に火を灯した古の技術「指南車」
馬鈞はある日魏の臣下である高堂隆と秦郎、三人で話していました。話は多岐にわたり古の技術「指南車」についての話になりました。
指南車とはこの車がどの方向に向いていても車の上にある人形が必ず南を向くようにできており、周の武王を助け、殷王紂を滅ぼした周公姫旦(しゅうこうきたん)も持っていたそうです。高堂隆と秦郎は「指南車なんて存在しないただの伝説だ」と馬鈞に言います。
馬鈞は「書物には残っているんだから、無いとは言い切れないですよ。現在指南車が存在しないのは誰も考えないからです。私が作りましょう」と反論します。
すると二人は「あなたの名前は鈞。字は徳衡ではないか。名前の鈞は器を作るときの原型で衡(こう)は物の軽重を定める道具ではないか。今あなたが指南車を作ると言いうのはただのほら話に過ぎない。話の内容の軽重を考えて発言してくれよ」と彼をたしなめます。馬鈞は彼の発明家魂に火が付き「あれこれ言うよりも作ってみせますよ」と言い放ちその場を後にします。
古の遺物「指南車」が完成
高堂隆と秦郎は魏の皇帝である曹叡にこの話を聞かせます。曹叡は「面白そうではないか。馬鈞に命じて指南車を作らせよ」と馬鈞に指南車作成の命令を発令します。
馬鈞は恭しく命令を受け取り、早速指南車作りを手掛けます。あれこれ試行錯誤しながら、ついに古の遺物指南車を完成。曹叡は早速指南車を拝見し、人形が南を向くか実験。指南車をどの方向に向けても人形が南を向きます。曹叡は大いに喜び、馬鈞を褒め称えます。馬鈞は指南車を製作した事により天下にその名を轟かせる事になるのです。
発明家馬鈞は官僚としては不遇であった
馬鈞は指南車を完成させ、その名を天下に轟かせますが官僚としては不遇のままでした。三国志の時代には発明家の技術官と言うものが存在しなかったからです。馬鈞弟子である傅玄(ふげん)は師匠の事を自らの書物「傅子(ふし)」の中で「私の師匠である馬鈞先生は給事中の職に居たが、適正な感触ではなかった。
先生は技術者として天下一等の能力を持っていたのにその能力を最大限発揮できなかったのは非常に残念であった」と記しています。馬鈞は優れた発明家でありましたが、官職は一向に上がらず、給事中の官職で生涯を終えてしまうのです。
三国志ライター黒田廉の独り言
馬鈞は武器の発明にも定評があり、ある日蜀の孔明が改良した連弩を拝見する機会がありました。蜀の諸葛孔明が改良した連弩をじっくりと見て「諸葛孔明も中々巧妙な連弩を作るではないか。しかし私の方が数倍遠くに発射できる連弩を開発できるな」と孔明の連弩を批判します。
また従来の発石車を改良して、連発式の発石車を完成させ、軍事面でも彼の技術は貢献しております。馬鈞の能力を最大限発揮させるため、魏に技術官を設置し、彼にもっと裁量権を与えていれば、もっといろいろな物を開発し後世に役立つ技術が残っていたかもしれないと考えると残念でなりません。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。それじゃまたにゃ~♪
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