孫皎(そんこう)は呉の諸将と積極的に交友関係を結んで仲良くなり、諸将はよくなついていたそうです。また諸葛瑾(しょかつきん)と非常に仲がよく肝胆相照らす中でした。彼は人付き合いを大事にするだけではなく、戦の場に出れば統率面や戦術面で非常に優秀な将軍でした。しかし、荊州攻略戦に参加した翌年亡くなってしまいます。亡くなった原因は蜀のある武将の呪いではないかと囁かれたそうです。知名度はかなり低いですが、呉を語る上で忘れてはいけない将軍である孫皎を紹介していきたいと思います。
この記事の目次
人当たりのいい孫家の公子
孫皎は孫堅の末弟にあたる孫静の息子で、呉では孫家一門に名を連ねる公子です。彼は孫呉の臣と積極的かつ親身に交友関係を結んでおりました。そのため、孫呉の群臣たちから非常に好印象を持たれていた人物でした。彼は普段は穏やかな人物ですが、特定の条件が満たされるとガラリと変わり、強気な人物になります。
三国志クイズ
ここで恒例のはじさんクイズです。孫皎は普段は穏やかな人物ですがある特定の条件下の時に、強気な人物になります。ではどのような時に強気になるのでしょうか。次の三択から選んでください。
1戦いの時
2酒宴の時
3孫権と喧嘩する時
さあ答えてくださいまし。
正解は・・・・・・2番でした。
そうなんです。彼は酒宴の時になると強気になってしまうのです。仲のいい人とサシで飲んだりするときはそんな事にはならないのですが、孫権(そんけん)が開いた酒宴で呉の名将であるあの人と大喧嘩します。
甘寧との大喧嘩
孫権はある日諸将を集めて、大宴会を開催します。孫皎も孫権に呼ばれて酒宴に参加。孫皎はこの席で呉の名将・甘寧に対して彼の日頃の行いに対して注意します。最初は軽く注意しておりましたが、酔った勢いもあってだんだんと言い方がきつくなり、しまいには彼に対してブチギレてしまいます。甘寧(かんねい)ははじめ黙って聞いていましたが、だんだんとイライラしてついに激怒。孫皎に対して「いかに公子であろうと、われら臣下と同列ではないか。ならば公子といえども人を侮辱して言い訳ではなかろう。私は明主に出会えた以上身命を賭して仕えており、公子であろうと俺は屈するわけにはいかん。」とぶちまけます。孫皎と甘寧はこの宴席以降、非常に仲が悪くなります。
孫権の仲裁により仲直り
孫権は甘寧に喧嘩をふっかけた孫皎に対して書状で「常に自らを慎み細かいところにまで気を使わなければ民の上に立つことはできない。また臣に対しては、器を大きくし、臣を愛する気持ちを持つことで多くの人臣から支持を得られる。これらを忘れてしまえば、人々を統率し、困難に立ち向かうのは難しいであろう。ミスや失敗をしない人はこの世に居ない。大切なのは自らの過ちを認め、改善することが優れた人である。叔朗(孫皎の字)よ。甘寧と仲直りし、今まで通り私を支えてくれないか。」と甘寧と仲直りをするように促します。孫皎はこの書状をもらうとすぐに甘寧の屋敷に行き彼に謝ります。甘寧はすぐに彼を許します。その後二人は大いに友情を育んでいきます。
荊州攻略戦で活躍
219年関羽(かんう)が魏の領土を攻撃するため北上を開始。孫権は関羽が北上しているこの時を好機と捉え、蜀との同盟を破棄し、荊州を攻略することを決意。呂蒙を総大将に任命し、朱然(しゅぜん)や潘璋(はんしょう)などそうそうたるメンバーが参加します。もちろん孫皎も荊州攻略戦に参加します。南荊州の主要軍事都市・江陵の攻略戦で活躍し、その後孫皎の軍勢は関羽の退路を断つなどめざましい功績を残します。
【次のページに続きます】