十字軍は、11世紀末から13世紀末まで続いたヨーロッパ諸国による聖地エルサレム奪回運動です。名前はとても有名で多くの映画や漫画の題材になっていますが、8回も続いた事もあり、最終的にどうなったか知らない人も多いのではないでしょうか?
今回のまるっと世界史は十字軍の始まりから終わりまでを分かりやすく解説します。
この記事の目次
十字軍は宗教的熱狂だけじゃない?
十字軍運動の動機と言えばキリストが死んだ場所である聖地エルサレムを奪回しようとする宗教的な熱狂があったと説明されます。確かにエルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり十字軍運動の前にはイスラム勢力のセルジューク朝に支配されていました。
しかし、それだけが十字軍運動の動機になったわけではありません。十字軍運動の動機はもっと差し迫り切実なものだったのです。
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過剰な人口を何とかしたい欧州
11世紀頃、欧州人口の90%は農民であり領主の荘園に隷属し田畑を耕して収穫物を領主に納めていました。欧州の土地は痩せていて収穫量は上がりませんでしたが、やがて土地が痩せるのを防ぐ為土地を春作地と秋作地と休耕地に分ける三圃制が定着します。また車輪付きの鉄製の鋤が開発された事で、土地をより深く耕す事が可能になり生産性が大幅に向上しました。
これにより余剰農産物が生まれ、自給自足だった荘園同士で市が立つようになり、物々交換ながら商業のネットワークが誕生します。ところが収穫量の上昇した分、欧州では人口が増大し耕作地が足りなくなる状態が発生。
増えた人口はイベリア半島に向いレコンキスタ(国土回復運動)へ、さらに東ヨーロッパに移民していきました。
一方で荘園領主も、長男は領主を継ぎ次男は聖職者にする事が出来ましたが、三男以降は相続させる財産も仕事もなく、フェーデ(血讐)を悪用して近隣の諸侯の子弟を誘拐し身代金を取る強盗騎士になるのが関の山でした。
このように十字軍前夜、欧州は深刻な人余り状態であり、聖地エルサレムへ遠征し一旗揚げようという冒険的機運があったのです。
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ローマ教皇の思惑
11世紀後半になるとエルサレムを占領していたセルジューク朝がビザンツ帝国(東ローマ帝国)の領地に頻繁に侵入するようになり、ビザンツ皇帝はローマ教皇に救援を求めます。
元々、ビザンツ皇帝とローマ教皇はキリスト教の教義や偶像崇拝を巡り対立し犬猿の仲でしたが、ローマ教皇ウルバヌス2世は、ここでビザンツ皇帝を救って恩を売り、ゆくゆくはビザンツ帝国を吸収しようと企て、西暦1096年全ヨーロッパのキリスト教諸侯に向け同胞を救い異教徒を殲滅し聖地エルサレムを奪回せよと呼び掛けました。
ここに人口過多により新しい土地を求めていた民衆(民衆十字軍)や功名心に逸る領主の三男坊以下の強盗騎士、あるいは純粋に信仰心に燃えた貴族や修道騎士がエルサレムへ向い進軍します。これが第一回十字軍です。
主力となったのはドイツとフランスの諸侯でしたが、彼らはビザンツ帝国領内を通過しイスラム勢力と戦いながらエルサレムを目指し多くの犠牲とそれに何倍もするムスリムやユダヤ教徒を虐殺しながら1099年にエルサレムを占領し、エルサレム王国を建国します。
しかし、やっと取り返したエルサレムは1世紀もしない内に再び、イスラム勢力に奪い返され、これに対してローマ教皇が再び十字軍を招集。かくしておよそ200年に渡り、合計8回もの十字軍運動が続く事になりました。
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豊かな地中海世界を見て仰天する田舎者達
第一次と第二次十字軍は陸路を経由してエルサレムに向かうルートでしたが、西暦1189年に起こされた第三回十字軍では、ドイツは陸路、イギリスとフランスはヴェネチアから海路で地中海を抜けるルートを取りました。
ここで、十字軍兵士が見たのは、イスラムとの交易を一手に引き受け空前の繁栄を謳歌している都市国家ヴェネチアの姿でした。ヴェネチア商人は十字軍兵士の輸送の業務を引き受け、また莫大な利益を出していたのです。
まだ商品の物々交換しかしらない西ヨーロッパの人々は、貨幣が日常的に使われ、沢山の物産が往来する発展した地中海の都市に目からウロコを落としまくります。
「ハァー!こりゃあたまげたっぺ…ワシらは財宝を奪って売り飛ばすしか頭に無かったけんども、コインを使って商品を安く買って高く売るだけで、こんなにも儲けられるもんなんだなァ」
こうしてヴェネチアの繁栄ぶりを見た西ヨーロッパの人々の中から同じように貨幣を使い商品を売買して富を築く人々が登場しました。十字軍運動は西ヨーロッパに貨幣経済をもたらした転機でもあったのです。
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欲望が引き起こした第四回十字軍
しかし、十字軍の動機に金銭欲が絡んだ事で薄汚い十字軍が結成される事もありました。西暦1202年に開始された第四回十字軍は教皇インノケンティウス3世の召集で始まりエジプト攻略を目指しますが、最初から軍資金不足に悩んでいました。
そのため、兵士と物資の輸送を通じて戦争を主導するまでになったヴェネチア商人が戦争を主導し、未回収の輸送費を回収すべく同じキリスト教国であるハンガリーの都市ザラを攻略。インノケンティウス3世は激怒しヴェネチア商人を破門します。
それでもヴェネチア商人は懲りず、またもキリスト教国ビザンツ帝国の首都、コンスタンティノポリスを包囲しました。
この滅茶苦茶な遠征の背景には、地中海貿易の利益を巡るヴェネチアとビザンツ帝国の確執がありました。ヴェネチア商人はビザンツ帝国を滅亡させる事で商売ガタキを潰したいという信仰もへったくれもない極めて強欲な理由で遠征を開始したのです。
もちろん、この私利私欲に対し、十字軍への不参加を表明する欧州諸侯も出ましたし教皇も最初は反対でしたが、結局はビザンツ帝国を吸収併合するという野望が勝ち、遠征は承認されました。
十字軍は、コンスタンティノポリスを陥落させ、徹底的な略奪と虐殺、強姦を繰り返してビザンツ帝国を滅亡させ、ラテン帝国やテッサロニキ王国を建国。勝者になったヴェネチア商人はエーゲ海にナクソス公国を建国しました。
滅亡は一時的なもので13世紀中期には亡命政権の一つ、ニカイア帝国が勢力を伸ばし、1261年にコンスタンティノポリスを奪還してビザンツ帝国を復興します。
ところが同じキリスト教徒によって引き起こされた徹底的な略奪と破壊は東欧のキリスト教諸侯を憤慨させ、カトリックとギリシャ正教の和解を不可能にし、その確執は現在まで尾を引いています。
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