呉の武将、丁奉。彼は孫権の時代から呉に仕え、甘寧や潘璋、陸遜と言った武将たちの下で働きました。彼が大将軍となったのは既に孫権もおらず、皇帝は孫休になった時のこと。そして皆様もあまり良い意味ではない感じにご存知な皇帝、孫皓が後に控えています。
今回はこの孫皓の代に至って、そしてその後の丁奉の家族らについてどうなったのかもお話しましょう。
この記事の目次
潘璋や甘寧、陸遜の部下として昇進
さて、まずは丁奉が大将軍になるまでをざっと駆け足で見ていきましょう。若かりし頃から幾人も孫呉の武将たちの下で働き、経験を積んでいった丁奉。後に魏の大軍を雪中行軍による奇襲で大きく打ち破った丁奉は、滅寇将軍に任じられます。
その後、専横を行っていた孫チンを取り除くべく動いた孫休の計画に招かれ、その功績を持って大将軍となったのです。
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張布と共に暴君孫皓を擁立
新しく三代目皇帝となった孫休はまだまだ若い、奥さんと仲も良く、息子も既に四人。さあこれから呉の時代が始まるぞ!という中で……孫休は急死しました。こうして後継者となったのが、皆様ご存知、孫皓です。この際に孫休の腹心であった張布らと共に、丁奉も孫皓を次の皇帝に推しました。
しかし孫皓は皇帝となったその年の内に、孫休の妻、朱太后を太后から格下げにし、翌年には死に追いやり、息子たちは幽閉され、うち、二人は殺害したのです。
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孫皓擁立を後悔し廃位しようとするが
よりにもよって自分たちが擁立した次の皇帝がこんなことをやらかしたのです。擁立に関わった者たちも段々と後悔をし始めました。そこで出てくるのが、廃位です。
この孫皓廃位については丁奉も参加したようですが、実行されることはなく、しかしこれらは万彧によって孫皓に讒言され、かつて丁奉を孫休に仲間にするように勧めた張布らは処刑されることになりました。こうなると万彧が次は丁奉を……と思いますが、そう上手くいかないのが歴史です。
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万彧を誅殺した孫皓だが丁奉は殺さない
ある時、万彧が孫皓にもうついていけないと言ったようなことを、丁奉たちに零しました。それを知った孫皓は怒り、万彧らを毒殺したのです。これはいくつかの説があり、中には毒杯を飲んだものの量が少なかったので助かったものの、怒りのあまりそのまま自殺したなど、説ははっきりとしていません。
ともあれ万彧は死を賜ったものの、実は丁奉についてはお咎めなしで終わりました。そして271年、丁奉は亡くなります。
丁奉の死後一族は流罪に
しかし、助かったのはある意味、丁奉だけでした。丁奉自体は大将軍のまま亡くなりましたが、その一年後、孫皓によってその一族は流罪を言い渡されました。処刑されなかっただけ良かったと言うべきでしょうか……。
丁奉もまた、孫皓の皇帝になった経緯に関わり合いのある人物。そしてその関わり合いのある人物らはだいたい無事ではないので……丁奉自身も、家族もまだ救いがあった方かと思われます。
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