さて名将揃いの呉の将の中の一人、今回は陳武についてお話しましょうか。彼は仕え始めた時代こそ孫策ですが、孫権にとてもとても愛された武将でもあります。
そんな彼についての伝は、もちろんのこと呉書にしっかりと記録されております。しかし実はこの陳武伝を見てみると……あれあれ?何だかちょっと面白いぞ?という事態に。今回はこれについてもお話しましょうね。
この記事の目次
陳武という人物
さて、陳武は孫策の時代から仕えることになった人物と言うのは前述した通り。時代は遥か昔、孫策がまだ袁術の庇護下にいた頃のこと。孫策の元にある人物がやってきました。
なんとその人物は身長七尺七寸、現代で言うと180㎝にちょっと届かないくらいの高身長。陳武、18歳の頃でありました。尚、自販機が183㎝なので、あの高さから5㎝ほど引いて頂ければ陳武の身長を身近に感じられることでしょう。
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各地で武功を挙げる陳武
孫策は陳武を迎え入れ、陳武は孫策の下で色々な土地で戦います。孫策は陳武を信頼していたのか、精鋭を率いさせて戦わせました。陳武の率いる軍は負けなしと言われるほど強く、名を挙げていきます。
そうして孫策亡き後、陳武は孫権に仕えます。この際、陳武は五校尉に任命されましたが、偉ぶることなく、仁義に厚く、良く施しを行った陳武は広く慕われ、多くの人々が陳武の元を訪れました。
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合肥の戦い(あっ)
孫権自身も陳武をかなり気に入っており、度々陳武の家に訪れたそうです。しかし時は流れて215年(あっ)。合肥の戦いに孫権は赴き、陳武もこれに同行します(ああっ)。
この戦いで孫権と相対する魏の武将は張遼。その戦いっぷりは凄すぎるため、三国志演義では控えめに描かれるほど……陳武もまた奮戦するも、この戦いで命を落としました。
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陳武の家を度々訪れるほど彼を気に入っていた孫権
陳武の家を度々訪れるほど、彼を気に入っていた孫権。敗北のショックも相まってか、陳武の遺骸と対面して号泣、その別れを惜しんだと言います。と、ここからちょっと後味の悪い逸話。孫権は陳武死後、その賓客となっていた家々の税を免除しました。
ここまではまあ良いでしょう。しかし陳武の愛妾に対して「陳武に殉死するように」と命じたのです。断れることもなく愛妾は殉死、陳武があの世で寂しくないように……かもしれませんが、そこまでしなくても……と思う一幕ですね。
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