後漢(25年~220年)の建安5年(200年)に袁紹はライバルの曹操と天下の覇権をめぐって戦いました。有名な「官渡の戦い」です。
激しい戦いの結果、袁紹は敗北して撤退に追い込まれ、2年後の建安7年(202年)にこの世を去りました。ところで袁紹の敗因は何だったのでしょうか?
今回は正史『三国志』から袁紹の敗因を検証します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
実際、負けるはずがなかった袁紹
実は袁紹は曹操より圧倒的に有利でした。
「だからお前はどうして、みんなが知っていることをわざわざ言うんだ!」
読者の皆様の怒りは、ごもっとも。袁紹が曹操より有利だったのは有名な話です。しかし、ここで改めて整理させてください。まず袁紹は汝南郡では屈指の家柄の人物。袁紹の出身の汝南郡には、多くの「門生」・「故吏」がいました。
「門生」は特定の一族のもとで儒教を学んだ人々であり、「故吏」は特定の一族が直々に呼び寄せた部下です。
袁紹から冀州を奪われた韓馥も、かつては袁紹の故吏です。彼らはただの知識人ではなく、武力で曹操に対抗する連中でもあり曹操をかなり苦しめました。
さらに、袁紹のもとには郭図や辛評などの預州潁川郡出身の名士、沮授や田豊などの冀州出身の名士もいます。みんな秀才で名高い人です。
兵も黄巾賊の残党や公孫瓚の討伐で手に入れた精鋭ばかり。つまり、改めて整理すると袁紹は本当に負けるはずがなかったのです。
敗因(1)帝になる機会を逃す
官渡の戦いの前年の建安4年(199年)に、袁紹の部下の耿包が「漢王朝は終わっている。天に従い袁一族が皇帝になるべし」と袁紹にアドバイスします。
袁紹は「マジすか!?」とちょっと乗り気になって会議にかけますが、部下のほとんどが漢王朝の擁護論者でした。というよりも部下は従弟の袁術が失敗しているので、それで止めたと筆者は推測しています。
「耿包の言っていることはヤバイですよ。とりあえず殺しておきましょう」と部下から提案されたので、袁紹も「そだねー」とカーリング女子みたいに相づちを返しました。
こうして耿包は刑場の露と消えました。袁紹は帝になる機会を失ったのが敗因の1つです。
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敗因(2)オトモダチ軍閥だったから
袁紹の欠点に関して元・部下の荀彧が証言しています。証言の内容が長いので今回は省きますが簡単にまとめますと以下の通りです。
(1)曹操と違って唯才主義の人事を行わない
(2)決断力に欠けている
(3)議論倒れの名士を集めて話にならない
しかし荀彧の内容はマイナスに方面の見方。プラスに見ると以下の3点にまとめられます。
(1)名士の意見と広く聞く
(2)儒教に従う
(3)名士の名声を尊重
これは現代の社会だったら非常によい話です。特に社員の意見をしっかりと聞き入れる理想の社長として袁紹はやっていけるはずです。ただし、袁紹が生きた時代は乱世。1人1人の話をゆったりと儒教なんかに従って聞いている暇はありません。
それなのに袁紹はゆったりと儒教的名士の相手をしました。要するに袁紹自身が部下である名士と同じ価値観・立場にいたのです。
主君が部下と同質になるのは非常に危険なことであり、権力の確立すら危うくなります。
つまり、袁紹軍は俗に言う「オトモダチ軍閥」!
その結果が、官渡の戦いの敗北と後の部下の後継者争い招いたのです。
三国志ライター 晃の独り言
今回は袁紹の敗因について解説しました。袁紹は君主権力の確立が出来なかったとはいえ、公孫瓚を倒したところまでは認めなければいけないと思います。
そこは褒めておきましょう。
※参考文献
・宮川尚志『六朝史研究 政治・社会篇』(平楽寺書店 1964年)
・山口久和『「三国志の」迷宮 儒教への反抗 有徳の仮面』(文春新書 1999年)
・渡邉義浩『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』(講談社選書メチエ 2012年)
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