三国志の一角を成した呉の孫権は、知名度こそ曹操、劉備に劣りますが、
乱世が産んだ、バランス感覚の高い人物と言えるでしょう。
ただ、この孫権は晩年が非常に悪い、その晩年さえまともであれば、
呉は司馬一族の台頭で混乱する魏を降して呉が三国を統一した可能性も
無かったとは言い切れないでしょう。
孫権がおかしくなったのはいつ?
孫権がおかしくなってくるのは、西暦240年頃の事です。
孫権は、69歳になっていて、劉備も曹操も、孔明も
三国の時代を彩った英傑達は殆ど残ってはいません。
この頃、孫権は呂壱(りょいち)というおべんちゃらが得意な
奸臣をお気に入りにして暴政を開始します。
孫権の暴政が始まるが・・・
呂壱が讒言した家臣を躊躇なく殺し、民衆に重税を課して、
人が変わったように暴政を敷きます。
あれだけ聡明だった孫権も、ライバルが消え、皇帝に即位した事で
慢心して、耳触りのよい事ばかりをいう奸臣を重用しだしたのです。
しかし、この時には、諸葛僅や、顧擁(こよう)のような
賢臣の必死の諫言で思い直し、呂壱を処刑して事無きを得ます。
ですが、問題はこの後に起きました。
孫権が、後継者として期待を掛けていた実子の孫登(そんとう)が
西暦241年に33歳の若さで死去してしまうのです。
後継者選びに悩む孫権
自分の死後は、孫登と信じ込んでいた孫権は、
後継者を決めるのに迷いを生じてしまいます。
次の王位継承者は2名で、三男の孫和と四男の孫覇でした。
※次男の孫虞は、それ以前に病没していた。
孫権は、自身が溺愛していた孫和を皇太子に立てようとしますが、
ここで、娘の孫魯班(そんろはん)が四男の孫覇を皇太子に立てるように
孫権にお願いすると、娘を溺愛していた馬鹿親孫権は、
それまでの孫和を止めて、孫覇を皇太子にすると言いだしたのです。
孫権のブレブレの判断で呉は分裂
これには、呉の家臣団は困惑し、孫和の擁立派と孫覇の擁立派で、
呉は二つに分裂します、これを二宮事件と言います。
孫権は当初、孫和を押した家臣達を次々に殺すか、左遷します。
ところが殺しても殺しても湧いてくる家臣に逆切れし、
「ぢゃあ、いいよもう! 孫和も孫覇も立てない喧嘩両成敗じゃい!」
と叫んで、孫和も孫覇もその取り巻きも、皆、殺すか、左遷して
終わらせてしまったのです。
この時に処断された家臣には、陸遜や張昭の子孫、なども含まれ
有能な賢臣は尽く殺されたと言われます。
西暦250年、二宮の乱の混乱を収拾するべく、79歳の孫権は
孫の孫亮(そんりょう)を皇太子に立てます。
その頃、孫亮は、僅か7歳でした、、、
そして、それから二年後、孫権は81歳で大往生します。
まだ9歳の皇帝、孫亮を残しての最期です。
呉は衰退の道を歩む
幼い、皇帝には諸葛恪(かく)や孫峻(そんしゅん)という人材が補佐に
つけられますが、次第に幼少の皇帝を軽んじていくようになります。
この頃から、呉では皇帝がコロコロと替わるようになり、
急速に没落していくのです。
呉の衰退の原因は誰の責任?
そもそもの原因は、皇位継承という大問題を癇癪を起こして
こじらせ、多くの有能な家臣を斬ってしまった孫権に起因します。
呉を興隆させたのも孫権なら滅ぼす要因を産み出したのも孫権、、
彼が、もう少し早く死んでいれば、皇位は孫登に受け継がれ、
悪名も残らなかったかも知れません。
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自己紹介:
三度の飯の次位に歴史が大好き
10歳の頃に横山光輝「三国志」を読んで衝撃を受け
まずは中国歴史オタクになる。
以来、日本史、世界史、中東、欧州など
世界中の歴史に興味を持ち、
時代の幅も紀元前から20世紀までと広い。
最近は故郷沖縄の歴史に中毒中、、
好きな歴史人物:
西郷隆盛、勝海舟、劉邦、韓信、、etc
何か一言:
歴史は現在進行形、常に最新のジャンルです。