正史『三国志』中の『魏志倭人伝』の記述により、三国時代に魏と倭国=日本との交流があったことが知られています。
しかし、日本と関係を持とうとしたのは魏だけではありませんでした。
呉の孫権が皇帝に即位した後、日本に軍勢を派遣した記録が残されています。
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なぜ、孫権は軍を日本へ派遣したの?
三国時代の勢力地図を見ると、孫権の支配した呉は中国大陸の南東、太平洋に面した揚州を拠点にしていたことが分かります。
孫権が皇帝に即位した当時、呉は蜀と和睦し協力関係にありました。
蜀が支配した益州は呉から見て西方に位置します。
一方、呉の北方には強大な魏が存在しており、北方進出はままならない状況でした。
呉が勢力拡大をできる地域は東側しかなかった
西と北を他勢力に抑えられている呉にとって、勢力を拡大できる余地が残されているのは呉よりも南方に位置する交州、そして呉の東……台湾と、日本でした。
また、南と東の国境線を押さえて勢力を伸ばすことは、ちょうど蜀の諸葛孔明が南の異民族の討伐を行ったことと同様、
国の安全保障上、必要不可欠な政策であったとも言えます。
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遠征軍、台湾には到達したけど……。
230年の春、孫権は配下の衛温と諸葛直という二人の将軍に命じ、兵士10000人を率いて夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に向かわせました。
夷州と亶州は呉の東方、太平洋上に浮かぶ島国で、夷州は台湾を、そして亶州は日本を意味していると考えられています。
二人の将軍は夷州(台湾)にこそ上陸を果たしましたが、亶州(日本)へはたどり着くことができず、その遠征の行程で兵士の実に9割を疫病で失ってしまいました。
1年後、二人は夷州の原住民数千人を奴隷として呉に連れ帰りましたが、孫権は勅命を果たせず貴重な兵士を失ったことを咎めて二人を投獄、いずれも獄死してしまいます。
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呉が日本に辿りつけなかった理由
なぜ、呉の軍勢が亶州にたどり着くことができなかったのかは諸説ありますが、興味深い仮説のひとつに『船出の季節』が原因だったとする説があります。
一旦、夷州への上陸を果たした軍勢が、亶州へ向けて出航できたのは夏を過ぎた、現代では9月以降の季節であったと考えられます。
この時期はご存知の通り日本では台風シーズンに当っており、洋上で艦隊が台風に直撃を受けたことが遠征挫折の大きな要因だったと考えられるのです。
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元寇(げんこう)と一致する
この台風説は奇しくも、モンゴル帝国が日本への侵攻を企図しながらも台風によって頓挫したとされる、あの『元寇』と一致します。
この時代、中国から日本へ渡航することはかなりのリスクを要したと言えるでしょう。
孫権が本当に求めたものは『不老不死の妙薬』?
ところで、古代中国には“徐福伝説”と言われる言い伝えが存在しました。
三国時代からさかのぼること400年程の昔、中国を統一した秦の始皇帝に拝謁した方士の徐福という人物が「東方に不老不死の霊薬がある」と具申。
秦の始皇帝はその薬の探索を徐福に命じました。
徐福は3000人の若い男女を引き連れて亶州に至りましたが、彼はそこで王となり、秦に戻ることはなかったと言われています。
孫権がこの徐福伝説を知っていた可能性は大いにあります。
もしかすると、皇帝に即位した孫権は不老不死を求めて亶州(日本)に軍を派遣したのかも知れません。
いずれにせよ、もしこの遠征が成功していたとすれば、当時の亶州=倭国(日本)に与えた影響は大きなものであったことは間違いなく、もし実現していれば、日本の歴史もまた大幅に塗り替えられたことは想像に難くありません。
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