審配(しんぱい)が率いた石弓隊に総崩れになった曹操(そうそう)軍は、官渡(かんと)城に籠城します。これを見た、袁紹(えんしょう)軍の軍師、許攸(きょゆう)は袁紹(えんしょう)に進言しました。
「曹操が城に立て籠っている間に、兵力の一部を裂いて、許都に進撃しましょう。許都の守りは手薄なので、献帝を拉致して迎えれば、大義名分は、我々の下に入りましょう」
許攸(きょゆう)の進言は、実は曹操が最も恐れた事でしたが、どうしても曹操(そうそう)を打ち破り、これを生け捕りにして自身の強さをアピールしたい袁紹(えんしょう)はこれを却下します。
曹操は新兵器を造る
一方、曹操(そうそう)は、石弓隊と櫓を打ち破る為に、発石車(はっせきしゃ)を発明します。発石車とは、動物の腱や紐を使って、長いクレーン式の発射台を引っ張り、腱や紐を切って、梃子の原理で石等を遠くに飛ばす仕組みの攻城兵器の事です。
曹操は、これを短期間で造り上げ、城外に居並んでいる櫓(やぐら)に向かって石を飛ばし、これを尽く破壊しました。石が櫓(やふら)を破壊する音は凄まじい爆裂音で、袁紹軍の兵士は、この発石車を霹靂(へきれき)車と呼んで恐れました。因みに霹靂(へきれき)とは雷の事を意味しています。
実は最近までも使用されていた兵器
曹操が造り上げた発石車は、三国志の時代を遡る事600年、紀元前5世紀にはすでに中国では攻城兵器として使われています。そればかりか、20世紀の第一次世界大戦まで世界中で、形を変えながら使われた息の長い兵器です。
日本とは違い、街は城壁で囲まれているのが普通だった、欧州や中国では、古くから城壁を打ち壊す攻城兵器として使われポピュラーな兵器になっていました。
発石車で飛ばすものは石だけではなかった
因みに発石車で飛ばすものは、石ばかりではなく、油壺で城を火事にしたり、死体や汚物を放りこんで、城内の士気を落したりという事にも使われました。13世紀、欧州を席捲したモンゴルは、原因不明の病気で死亡した、兵士の死体を発石車で城の中に放りこんで退却した事があります。
ペストが大流行したのも実は・・・・
実は、この死体は、黒死病と呼ばれて恐れられたペストによる死人で、城の中では瞬く間に死体からペスト蚤が飛び出して人に咬みついて蔓延し、ここから、欧州ではペストが頻繁に大流行するようになったようです。
ペスト自体は元々はモンゴル高原に住んでいたクマネズミが持つ、ペスト蚤がキャリアーでしたが、これがモンゴル軍の遠征に合わせて欧州まで広がったと言われています。
狭い地域に密集して人が住む上に、下水道もない不衛生な欧州の都市ではクマネズミが繁殖するのに最適だったので、ペストは、何度も大発生していったのです。
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