史書によると、諸葛孔明は『韓非子』(かんぴし)という書物を写し書きして、劉備の息子である劉禅に献上したとされています。言い換えるなら、『韓非子』は劉禅の家庭教師的立場でもあった孔明が、劉備の跡取りになる劉禅に読ませたい教科書ということでしょう。
『韓非子』とは、いつ頃、誰によって書かれた書物なのでしょうか?
そして、それはどんな内容だったのでしょうか?
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この記事の目次
韓非子の筆者・韓非の報われない生涯
『韓非子』は三国時代からさかのぼること約500年前、戦国時代と呼ばれる時代の末期に韓(かん)という生きた人物、韓非(かんぴ)が記した書物です。韓非には生まれつき重い吃音があり、異母兄弟たちに見下されていたといいます。しかし彼は非常に聡明で文才があり、自分の考えを話すのではなく文章で書くことで他人に伝えました。
韓非の生きた時代、戦国時代はその末期にさしかかり、小国が滅ぼされて『戦国七雄』(せんごくしちゆう)と呼ばれる七国が覇を競う時代になっていました。
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キングダムで有名な秦
『戦国七雄』の中で最強の勢力を誇ったのが後に中国の統一を果たす大国、秦(しん)でした。一方で韓非の国である韓は七国の中でも最弱であり、秦に貢物をして属国同然の状態になっていました。
祖国の現状を憂いた韓非は、王に度々提言しましたが、王は韓非を軽んじ、提言を取り上げることはありませんでした。韓非は自分の意見が取り上げられないことを嘆き、せめて自分の思想を形に残そうとして書物に書き起こしました。これが『韓非子』であるとされています。
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秦の王・嬴政は韓非の才能を認める
後に韓非は秦への使者に抜擢されます。韓非の書を読んでいた秦の王、嬴政(えいせい。後の秦の始皇帝)は韓非の才能を認め、使者である彼をそのまま自分の配下として登用したいと考えました。
嬴政の配下で大臣を務めていた李斯(りし)は、かつて韓非と同門で学んだ間柄でした。嬴政が韓非の登用を考えていると知った李斯は、韓非の才能を恐れ、王に讒言します。
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李斯に嵌められた韓非
韓非は王に囚われて投獄され、その牢内で李斯に自殺することを迫られ、毒を飲んで自らの生命を絶ちました。
異母兄弟に蔑まれ、自ら仕えた王には軽んじられ、かつての同門の友人であった人物によって自殺させられた韓非。その生涯は報われないものでしたが、彼の書き残した書物は時代を越える名著として、今に残されています。
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