魏の曹操(そうそう)には、13人の妻と、32人の子供がいました。それと比べると、ものすごく少なく感じますが、
蜀の劉備(りゅうび)には、4人の妻と、3人の息子(養子の劉封は除く)がいました。
糜夫人(びふじん)
糜夫人は、劉備の最初の正妻で糜竺(びじく)の妹です。
糜竺は徐州(じょしゅう)の陶謙(とうけん)の配下で、陶謙の死後、劉備を徐州牧に推薦した人です。おそらく劉備が徐州に滞在している間に婚姻関係を結んだのでしょう。
徐州牧の妻としての平和な暮らしは長く続かず、拠点が呂布(りょふ)に乗っ取られて人質に取られたり(しかも二回)、さらには関羽と一緒に曹操に捕らわれたりします。このとき一緒に捕らえられた子供は、殺されたか、娘だったのかわかりませんが、記録がありません。
『正史』での糜夫人は曹操に捕らえられたあと消息を絶ちます。……殺された可能性があります。
三国志演義では糜夫人どうなるの?
ですが、『三国志演義』では、208年の長坂の戦いの最中、またしても曹操軍の中に置き去りにされ、重傷を負いますが、甘夫人の生んだ阿斗(あと)を胸に抱いて逃げます。
趙雲(ちょううん)が助けに来たので阿斗を託し、自分は足手まといになるからと言って、井戸に身を投げてしまいます。とても、とても、とても……薄幸な女性です。
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甘夫人(かんふじん)
甘夫人は、劉備の側室です。ドラマなどでは、芙蓉姫(ふようひめ)と呼ばれることもあります。劉備が豫州(よしゅう)刺史で、小沛(しょうはい)に住んでいた頃に妻となりました。一番長く劉備と連れ添っている妻ですが、身分が低かったために、糜夫人が正妻で、甘夫人が側室という位置づけになっていました。糜夫人と甘夫人はとても仲良く、お互いを尊重し合っていたといいます。糜夫人と同様、甘夫人も何度も敵対勢力に捕らわれました。
207年に、のちに劉備の跡継ぎとなる阿斗(劉禅)を生みますが、その直後に起きた長坂の戦いでも、敵陣に置き去りにされてしまいます。趙雲が助けに来て、そのときは無事に助け出されますが、そののち、まもなく病を得て亡くなってしまいます。
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孫夫人(そんふじん)
劉備の三人目の妻、孫夫人は呉の孫堅(そんけん)の娘で、孫権(そんけん)の妹です。孫尚香(そんしょうこう)の名でも知られています。甘夫人が亡くなったあとに婚姻関係を結び、正妻となりました。
30歳近くも離れた二人の縁談は、蜀・呉で協力して戦った赤壁(せきへき)の戦いのあと、荊州(けいしゅう)の領土問題で二国がもめたときに持ち上がりました。
当初は劉備を殺すための罠としてセッティングされた縁談だったのですが、裏をかく孔明の作戦により、孫夫人と劉備は無事に結婚します。孫夫人は武器マニアで、侍女たちを武装させ、自室にもあらゆる武器を飾っていたため、劉備は彼女の部屋を訪れるたびにビビっていたといいます。しかし、夫婦仲は良好だったそうです。
のちに、蜀・呉の関係が悪化したためか、孫夫人は「ハハキトク、スグカエレ」と言われて呉へ帰国します。
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呉夫人(ごふじん)
呉から嫁いで来た孫夫人と紛らわしいですが、別人です。呉夫人は劉備の四人目の妻で、正妻で、最後まで連れ添った人です。221年に劉備が皇帝になると、皇后位につきました。
益州(えきしゅう)の劉焉(りゅうえん)・劉璋(りゅうしょう)親子に仕えた呉懿(ごい)という武将の妹で、最初に劉焉の三男、劉瑁(りゅうぼう)と結婚します。しかし夫に先立たれて未亡人となります。
214年に、劉備が劉璋を制して成都にやってきたとき、群臣から劉備との結婚をすすめられます。劉備の方は、劉瑁の妻であった女性を娶るのは同姓婚ということになり、タブーを犯すといって断りますが、結局、説得されて二人は結婚することになります。
劉備の死後も長生きをし、245年に亡くなり、劉備と合葬されました。