諸葛亮(しょかつりょう)がとても有名な諸葛一族、実は三国時代には魏・呉・蜀の各国で活躍しています。呉では諸葛瑾(しょかつきん)が孫権を支える幕僚となり、その息子も同じく呉に仕えました。
この息子が諸葛恪です。諸葛瑾の長子で、諸葛亮の養子となった喬の兄にあたります。
陸遜も呆れるぐらい諸葛恪の性格は悪すぎ
人柄を讃えられた父・叔父・弟とは正反対にちょっと問題ある性格だったようで、諸葛瑾には「(この性格なのに)頭が良すぎて当家を潰す」と言われ、諸葛亮と陸遜が交わした手紙には「大雑把でいい加減」と記されています。挙句陸遜にも「性格を何とかしろ」とたしなめられていたとか…。
諸葛恪は頭が良すぎるが問題が...
その代わりに頭の回転が恐ろしく早く、才気と機知に長けていたといいます。父の名を書かれた驢馬の顔に「之驢」と即座に書き足したエピソードは有名です。そして山越討伐や兵の徴収、魏との戦いでも功績を挙げ、40歳くらいの頃には大将軍に任命されました。仕事はできるけどメンドクサイ上司・・・・頭の良すぎる人はどこか他に問題が…という感じだったのでしょうね。
諸葛恪が若い頃は何をしていたの?
若い頃は孫権の皇太子・孫登の側近として集められ、張休・顧譚・陳表らと共に君臣の礼を超えた親しい付き合いをして「太子四友」と呼ばれました。孫登は徳がありすぐれた人物だったと正史で評されており、諸葛恪とどんな風に付き合っていたのかとても気になるところです。しかし孫登は33歳の若さで亡くなり、弟の孫和が新たに皇太子となったものの、孫権が溺愛するもう一人の弟・孫覇(もっとも孫権には息子が7人居ました)の間で継承権争いが起きます。
この時諸葛恪は孫和を、長男の諸葛綽は孫覇を支持しました。家臣団を真っ二つに割ったこの二宮事件は孫和を廃太子し幽閉、孫覇を処刑、さらに年下の弟の孫亮が皇太子…という結果に終わり、孫権の示唆もありこの時諸葛恪は息子を毒殺しています。
性格が仇になり人望を失っていく
二宮事件の後、諸葛恪はまだ8歳と幼かった孫亮の太師太傅(成年前の皇帝・皇太子に付く指導役)に任ぜられ、翌年に孫権が死去した後の重臣間の権力争いに勝利し、呉の実権を掌握しました。権勢を振るうだけでなく政治の実績も挙げていましたが、いかんせん件の性格は治らず、独断専行も行うものですから人望を徐々に失っていきます。
諸葛一族が滅びるきっかけ
253年に合肥で起きた魏との戦いで大敗した事が決定打となり、その年の10月に以前から諸葛恪と対立していた孫峻(孫堅の弟・孫静の曾孫)が皇帝孫亮を抱き込んだクーデターを起こし諸葛恪を斬殺。弟の諸葛融の一族も皆殺しにされました。諸葛瑾が心配した通り、諸葛恪の普段の言動や行いが一族を潰してしまったのです。
諸葛恪については陳寿も
「とても才能や視野の広さを持っていたんだけど、いかんせん性格がね…」と纏めています。
正史でここまで性格に関するエピソードが残っているというのも何だか面白いです。そしてその才能に関しては『捜神記』『異苑』などの書物に伝承が残るくらい有名でした。
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