208年の赤壁の戦いのあと、
劉備と曹操は漢中(かんちゅう)で激突しますが、
孫権は曹操と合肥(がっぴ)で戦いを繰り広げます。
合肥を巡る戦いは、赤壁の直後から始まり、
長い膠着状態をへて217年まで続きました。
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208年、孫権が合肥を攻撃するが敗北
孫権軍は赤壁での勝利の勢いに乗じて合肥に攻め込みますが
膠着状態に陥ります。
それを打破したのが、曹操軍の張遼(ちょうりょう)でした。
張遼は孫権を挑発し、孫権はそれにのってしまいます。
張遼と孫権軍の武将、太史慈(たいしじ)の一騎打ちが
行われますが、両者互角で70、80合打ち合ったとき、
孫権が命を狙われ危機に陥ります。
そこで太史慈は引き返し、孫権軍は敗北してします。
その後、合肥城を攻めた太史慈は、張遼の待ち伏せにあい、
斬り殺されてしまいます。
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212年、曹操が江南に進軍するも撤退
この時期の曹操は、孫権と戦うと同時に、馬超との戦を行っており、
うまく孫権軍に兵力を裂けない状態が続いていました。
ようやく馬超との戦に決着がついた曹操は、
212年、40万の大軍を率いて孫権軍と対峙します。
しかし、孫権軍は曹操がやってくる前までに、
しっかりと防備を固めていました。
水軍で迎え撃ち、戦は長期化します。
曹操はついに撤退を決め、孫権軍の勝利に終わりました。
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215年、孫権、再び合肥へ攻め込むも敗北
215年、曹操は漢中攻略に向かいました。
蜀の孔明から、「今のうちですぞ!」とそそのかされ、
孫権は再び合肥に進軍します。
はじめに、皖城(かんじょう)を攻略しました。
皖城は合肥の兵糧をまかなっている場所だったので、
孫権は勢いづきます。
そのまま合肥へ攻め上りました。
張遼により孫権軍は大ダメージ
しかしここで思わぬことが起こりました。
魏軍の武将、張遼の鬼神のごとき猛攻撃です。
張遼は、10万人の孫権軍に、たった800人で斬りこみ
孫権軍に甚大な被害を与えました。
このとき、退却する橋を壊され、孫権は命を奪われる寸前まで
追い詰められます。
なんとか馬で橋を飛び越え命拾いをしましたが、
このことは孫権軍に大きな恐怖を植え付けました。
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この記事を書いた人:東方明珠
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普段は恋愛系のノベルやシナリオを書いています。