殺伐とした三国志の武将達の中でも、一部には、大変な人格者も存在します。
しかし、そのような人々にも、地雷ワードが存在し、うっかり口にしたばかりに、
相手は急速に不機嫌になるか、最悪恨まれて殺されてしまうケースまであるのです。
今回は、そんな三国武将の地雷ワードを紹介していきましょう。
この記事の目次
もし、夏侯惇(かこうとん)にあってもこのあだ名には注意!
独眼の武将って、凄みがあってカッコイイものです。
日本でも、独眼竜こと伊達政宗や、柳生十兵衛など独眼の武士は、
強烈なインパクトがあり人気も高いですよね?
三国志の時代にも、曹操(そうそう)の分身のように信頼された夏候惇が、
戦による負傷で片目を失い盲(もう)夏侯などと呼ばれています。
そんなこんななので、ついつい、私達も夏候惇は、このあだ名を
気に入っていたように思いこんでしまいますが、実は、
これは当人の前では言ってはいけない地雷ワードなのです。
王沈(おうちん)の魏書に描かれた、鏡を割りまくる夏侯惇
魏の王沈により編纂された魏書によると呂布の部将曹性(そうせい)に
左目を射ぬかれた夏侯惇は自分の左目の傷を激しく嫌悪し、
鏡を見るたびに癇癪を起して、鏡を叩き割って捨てていたと言われています。
つまり、盲夏候というのは、夏侯惇には最大の地雷ワードなのです。
もし、万が一、タイムスリップして夏侯惇に会っても、
あ、盲夏侯だ!なんて言ってはいけません。
絶対、キーーーーーッ!てなりますよキーーーーッって。
温厚な曹真を激怒させた絶対禁句の地雷ワード
曹真(そうしん)は、曹操の血縁者で後の魏の王室に連なる人物でした。
かなりエライにも関わらず、若い頃に苦労した曹真は部下思いであり、
自分と同じように若くして両親に死に別れた曹一族を養育したりしています。
そんな曹真、武芸と軍略には抜群の才能があり、特に馬術においては、
長年の訓練が必要な、馬上で振り向きざまに弓を射る遊牧民の戦闘法
パルティアンショットを体得した数少ない漢民族の武将でした。
ただ、この曹真、そんな敏捷な動きが出来るとは思えない程に
体は肥満していたと伝えられています。
その肥満体をある宴会で、曹丕(そうひ)のお気に入りの呉質(ごしつ)にからかわれた曹真。
そればかりならまだしも、同族の曹洪(そうこう)まで一緒になってからかうので、
物凄く激怒したと伝えられています。
おそらく、曹真の肥満は遺伝的体質で運動不足とかでは
無かったのかも知れません。
もとより人の容姿をからかうのは、いけない事ですが、
曹真に対して、やーいデブというのは絶対禁句です。
笑いごとではない、とうとう張裕の命まで奪った最悪の地雷ワード
劉備(りゅうび)というと小さな事は気にしない大徳の人物というイメージがあります。
しかし、そんな彼には、決して言ってはいけない地雷ワードがあるのを
皆さんは御存じだったでしょうか?
益州の劉璋(りゅうしょう)の配下に、張裕(ちょうゆう)という占い師がいました。
彼は、後に蜀漢で重職につく鄧芝(とうし)の才能を見抜き70を過ぎてから、
大将軍となろうと予言して的中させた人物です。
この張裕、劉璋の配下として、益州に来た劉備と会見したのですが、
大変に見事な濃いヒゲを持つ人物でした。
劉璋は、張魯(ちょうろ)を討伐するという触れこみでやってきた
劉備を歓迎して、100日に及ぶ大宴会を行いました。
そこで、したたかに酔った劉備は、張裕の立派なヒゲをネタにからかい、
こんな事を言いました。
劉備「あたしはね、昔、涿県という所に住んでいたんですが、
そこには毛という氏が多いんですよぉ・・
県令なんかは、俺は周囲を毛に囲まれている
なーんて冗談を言う位でしてねェ、ヒック・・」
劉備は、このように言う事で、張裕の顔がヒゲだらけである事をからかいます。
ヒゲもじゃをからかわれた張裕は劉備のヒゲが薄いのを笑う
それを受けた張裕は、逆にこのように言い返しました。
張裕「昔、上党潞(ろ)の長が出世して、涿(たく)県の県令に昇進したそうです。
それから暫くして、県令の仕事を辞めたのですが、県令の友人は、
その辺りの事情に詳しくなく、手紙の宛名に、潞君と書いていいのか?
涿君と書いていいのか悩み、最後には潞涿(ろたく)君と書いたそうです」
潞という字は、サンズイを抜くと、路という文字になりますが、
ここには、露わになるという意味があります。
例えば道路は、そこに生えていた草や木を切り倒した地肌が見える道である
という意味で道路なのです。
劉備は郡涿県の出身なので、サンズイを意図的に二つ重ねる事で
サンズイを無効にして「路」顔が露わな人、ヒゲ無し君とからかったのです。
実は劉備はヒゲの薄い事で有名でした(だから関羽を義弟にしたかも知れません)
周囲は張裕の機転に大爆笑します。
しかし、内心、これを笑わなかった人がいました、そう劉備です。
ヒゲが薄い事をコンプレックスにしていた劉備は張裕にバカにされた
と思い、以来、張裕を激しく恨むようになります。
漢中を制した劉備が取った驚きの行動
後に張裕は、漢中が曹操の手に落ちる事を予言しますが、結果は、
曹操は惨敗して劉備の勝利に終わりました。
また、張裕は、密かに友人に西暦220年に後漢の命運が尽きる事を予言し、
同時に、劉備の命が残り少ない事を暗示しました。
ところが、この話は劉備に漏れてしまい、劉備は以前占いを外した事と、
自分の死を予言した事で張裕を執拗に尋問して、ついには投獄してしまいます。
諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は、
張裕は有能な人物なので、罪をお許し下さるようにと、赦免を嘆願しますが劉備は
「たとえ、有能でも朕に反抗的なヤツはこうしてやらないといかんのだ」
と聞く耳を持たず、とうとう処刑してしまいました。
ここに、以前自分をヒゲ無し君とからかった張裕への個人的な恨みが
あったという事は想像に難くないでしょう。
劉備にとって、ヒゲ無し君は、最悪の地雷ワードだったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
劉備にヒゲもじゃ君とからかわれたので、ヒゲ無し君と言い返した張裕。
それが、まさか、ここまで激しい恨みを買うとは考えもしなかったでしょう。
人の地雷は、どこにあるか分からず、自分にはつまらない事でも、
相手には大問題という事も多々ありますね。
本日も三国志の話題をご馳走様でした。