今回初めての三国志で紹介するのは朱桓(しゅかん)です。彼は江東の四大貴族(朱・張・陸・顧)出身の武将です。貴族出身だったら横柄な人でしょと思われますが、兵士や民には、すごく優しく接することのできる武将です。また自分の配下の兵士1万人の名前と出身地を覚えていた記憶力抜群の人物です。
この記事の目次
慈愛に満ちた官吏
朱桓が若い時は孫権の小姓として仕え、その後孫権から県令に任命されました。彼が県令として赴いた土地は、疫病が蔓延しておりました。また、飢饉が発生したせいで、食物がなくなり民衆は非常に困っていました。朱桓はそこで、能力のある役人を選び抜いて、疫病にかかって病気になった民衆を治療し、食物のない家には施しを行い領民の安定を第一に考えた政治を行います。
民衆の病気も治り餓死を改善し、山越族もの反乱にも対応
このおかげで、民衆の病気が治り、食べものがない家では餓死することがなくなりました。また山越族が反乱を起こし、行政官や民衆を襲い略奪を行っていましたが、すぐさま平定します。これらの活躍により朱桓は民衆からはすごく人気のある統治者で、孫権からの評価も高く、裨将軍に任命されます。
将軍として内外から高い評価を受ける
朱桓は将軍に任命された後もしっかりと実績をあげていきます。魏の皇帝・曹丕(そうひ)が大軍で呉に攻め込んできます。朱桓は5000の兵で濡須の守備を命じられ、魏の名将・曹仁(そうじん)が数万の兵士を率いて侵攻してきます。圧倒的な戦力差に兵士は恐怖に駆られてしまいますが、朱桓は兵士達に
「勝負を決めるのは兵士の質と大将の手腕によって決まるのだ。曹仁の軍勢は遠征により、疲労困憊であるが、我らは全く疲れていない。また要害堅固の地に陣取り、遠征してきた敵を打ち破るにはもってこいの場所に陣をとっている。これらの状況を考えれば我らの勝ちは目に見えている。」と兵士を激励します。
朱桓は弱々しい軍勢を数日装う
朱桓は、弱々しい軍勢を数日装い、曹仁を油断させます。彼は曹仁の陣に油断が生じたと判断して、猛攻をかけて、数万の曹仁軍を大破させ、曹泰を撃破し、王双を捕虜にする抜群の勲功を挙げます。また石亭の戦いでは、朱桓は陸遜(りくそん)の指揮下に入り、数万の兵士を率いて左翼を担当し、周魴の偽降に引っかかった曹休(そうきゅう)の軍勢を打ち破ります。これらの戦いが評価され、石亭の戦いの翌年孫権からに前将軍に任命されます。
短気が欠点の朱桓
朱桓は数々の武功を挙げ、国内外から高い評価を受けていました。しかし同僚や自分より上の者から指摘されるのをすごく嫌っていた人物です。ある戦で朱桓と全琮が軍の方針について話し合いをしておりましたが、両者の意見は食い違い、言い争いになります。この陣に孫権(そんけん)はお気に入りの胡綜(こそう)という人物を派遣しておりました。全琮は胡綜から孫権がそのようにしろと指示を出していたと朱桓に話します。朱桓は激怒し、胡綜の陣へいきます。しかし胡綜は側近からこの話を聞き逃げ出してしまいます。
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短気の朱桓は側近を殺害、止めようとする者まで・・・
朱桓は胡綜が逃げ出したことを彼の側近から聞くと刺殺し、自分を止めようとした副官も殺してしまいます。この事件を聞いた孫権は彼を病と称して療養させることにしたそうです。孫権は朱桓が残した数々の功績とその能力を惜しみ、罪を問わなかったそうです。正史「三国志」の著者・陳寿(ちんじゅ)も彼の短気な部分が欠点であると指摘しております。朱桓は短気な性格が欠点でありましたが、自分が獲得した恩賞は配下の兵士に全て分け与え、下の者には別人のように優しかったそうです。朱桓が亡くなった時、彼の配下の兵士は大いに悲しんだそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
朱桓はあるとき落頭民という南方の部族の女を下女に雇います。この下女は夜になると首だけが胴体から離れて空を飛んで行ってしまうという噂が流れます。彼の配下が確かめるべく、夜中、女の元へ行くと確かに首だけがありません。そこで布団を胴体に被せると、首は行き場を失い、地面に何度も落下し、息も絶え絶えになっておりました。
すぐに布団をどかすと首は戻ってきて、胴体と合体し、何事もなかったように過ごしたそうです。朱桓はこの不気味な話を配下から聞くとすぐに解雇したそうです。武勇に優れた朱桓でも妖怪には勝てなかったようですね。
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