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司馬懿VS公孫淵
公孫淵は司馬懿の軍勢を迎え撃つため遼隧(りょうすい)に陣を敷きます。
この地に塹壕を掘り防御を固めて敵が来るのを待ちます。
司馬懿は公孫淵軍の防御の厚さを見て、偽装退却を開始。
公孫淵は司馬懿の軍勢が退却しているのを見て、陣を出て追撃を開始します。
司馬懿は追撃に出てきた公孫淵の軍勢に対して、軍勢を旋回させ猛攻をかけます。
公孫淵の軍勢は司馬懿軍の猛攻に耐えきれず敗北。
襄平の城に逃げ込みます。
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襄平城に籠城するも抗いきれず逃亡を図る
公孫淵は襄平城に逃げ込むと城門を固く閉じ、籠城します。
司馬懿は公孫淵が城門を閉ざし、籠城の構えを見せると城を二重、三重に囲み猛攻を開始。
公孫淵は必死に抗戦しますが、食料が尽きて城内は人が人を喰う地獄絵図のような事態になります。
公孫淵は城を脱出する事を決意し、息子と共に数百騎の軍勢で包囲陣を破り脱出。
逃亡は失敗し、司馬懿の軍勢斬られる
公孫淵は襄平の城を囲んでいる包囲陣を見事に突破し、息子と共に逃亡に成功します。
しかし司馬懿の軍勢が公孫淵親子に対して猛攻をかけてきます。
公孫淵は少数の軍勢ながら必死に抵抗しますが、
大軍の勢いには勝てず捕縛され、司馬懿の前で処刑されます。
こうして遼東を三代にわたって領有してきた公孫家は滅びます。
三国時代では独立してから滅亡まで第二位の長寿国
公孫家は司馬懿の討伐により滅亡しますが、実は独立してから滅亡まで50年ほど独立国として、存在していました。
ついでに建国してから滅亡までの順を三国時代で表すと、蜀は劉備(りゅうび)が建国してから滅亡まで43年。
魏は曹丕(そうひ)が皇帝となってから司馬炎(しばえん)に皇帝の位を簒奪されるまで46年。
こうしてみると公孫家が独立してから滅亡まで50かなり長い年月遼東を領有して独立していたことが分かりますね。
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三国志ライター黒田廉の独り言
実は公孫淵は日本とのつながりもあったことをご存知ですか。
邪馬台国(日本)は魏との国交を深めていきたいと考え、中国大陸に使者を派遣します。
邪馬台国の使者は現在の朝鮮半島を経由して魏の都である洛陽に向かうはずでした。
しかし、遼東を支配していた公孫淵は日本の使者を領地に止め、貢物を得ていました。
公孫家が滅ぶと魏との国交を結び、かの有名な「魏志倭人伝」に邪馬台国の名前が列記される事になるのです。
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~♪