三国時代の中で最も巨大な国は魏(ぎ)でした。
漢王朝復興を目指し孔明(こうめい)は強敵に対して天下三分の計を劉備(りゅうび)に授け、呉と協力をし魏を滅ぼそうと目論みます。
魏の領土が中原の3分の2を占め、人口は2千600万人あまり。
呉は、長江以南の地帯を治め、人口は1千数百万人あまり。
蜀は、現在の四川省のあたりを治め、人口は数百万人あまり....
極端な例え方をすると、「アメリカ合衆国が魏」「日本が呉」「ハワイが蜀」
魏は他の国との規模も歴然とし、兵力とも圧倒的優勢でした。
さて、それほどの強国・魏は一体どのようにして建国され、
統一を前にして魏は何故、滅んだのか。
魏の建国に、深く関係している奸雄・曹操孟徳と一緒に魏についてご紹介します。
この記事の目次
日本でも馴染み深い魏王朝
魏は正史では正統とされ、220年に後漢王朝から帝位を譲り受けてから、
265年、司馬炎に禅譲(※帝位を譲ること)するまで5代に渡り45年しか続かなった王朝。
日本では魏は卑弥呼を記述した魏志倭人伝でも知られており、横山光輝氏の三国志では、魏王朝を悪役で描かれてるので知名度も高い王朝ですね。
魏のベースを築き上げたのは曹操とも言われています。
魏の創業者・曹丕(そうひ)も曹操から財産を受け継いだことにより
比較的スムーズに三国時代に魏王朝が誕生しました。
さて、曹丕が受け取った財産、地位、人材を曹操はどうやって築き上げたのでしょうか?
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189年・若き曹操は董卓討伐で名を上げる
189年、曹操は諸侯とともに董卓討伐を全国に呼びかけ、反董卓連合軍が誕生します。
反董卓連合軍には袁紹を筆頭に、孫堅、公孫瓚、馬騰、袁術と続々と各地から豪傑が集まり、オールスター感謝祭並みの豪華メンバーでした。
これでほどの豪華メンバーが集まっても、同族の袁紹と袁術の対立が生じ、次第に反董卓連合軍は崩壊。
董卓征伐は失敗に終わりました。
反発しあう袁紹や袁術とは違い、曹仁、曹洪、夏侯惇、夏侯淵といった曹操一族の強力な血縁を有してたことも曹操の強みでした。
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191年 参謀・荀彧が曹操配下に加わる
この年には早くも清流派知識人であった荀彧(じゅんいく)が曹操陣営に加わります。
曹操は、「おお!わが子房(しぼう)がやってきたぞ」と、漢の建国者・劉邦(りゅうほう)の軍師であった張良(ちょうりょう)子房だと荀彧を迎えて嬉しさを爆発しています。
荀彧は人を見る目もあり、郭嘉や荀攸など軍事や内政面で活躍する名士達を推挙。
のちに晋王朝の創始者でもある司馬懿を推挙したのも、荀彧なのです。
曹操陣営のもとに優秀な人材が集まり、後の中心メンバーにもなります。
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192年 黄巾賊の残党を降伏させ青州兵誕生
192年には黄巾賊の残党を降伏させました。
残党を自軍に取り込みたいと考えた曹操は、彼らから提示された条件①②③を呑んで、その戦力を手中に収めます。
①太平道を信仰する自由を認めること
②軍団を別の土地の兵と混成しないこと
③曹操が死んだら自分達を自由にすること
曹操は吸収した黄巾賊から精鋭を選び出し、これを「青州兵」と名付け戦力として活用しました。
青州兵は曹操軍の重要な戦力といて各地を転戦、功績を上げ魏建国の土台造りに大きく貢献します。
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196年 曹操は献帝を保護
献帝が洛陽に帰還するという情報を聞きつけた曹操は早速、献帝を保護するために動きます。
この頃、袁紹の参謀も天子を迎えることを進言したが、袁紹がためらっている間に曹操が身柄を確保し、許へ遷都(せんと)。
曹操は献帝を手に入れたことにより、自分に歯向かう敵は朝敵とみなし、官軍という大義名分を得ます。
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210年 求賢令(きゅうけんれい)を曹操が発布
曹操は袁術、呂布、袁紹らを滅ぼした一方、敵の配下に才能あるものがいれば積極的に自軍に取り入れています。
曹操の人材蒐集癖はとどまる所を知りません。
才能さえあれば誰も登用する!と天下にあまねく知らせが行き渡り
曹操の元に多くの人材が更に集まりました。
これまでに集まった人材という財産は曹丕に受け継がれていくのです。
曹操が求賢令を発布し、人材を手なづけたのは曹操のずば抜けた統率力による芸当ですね。
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