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李広(りこう)とはどんな人?「飛将軍」と呼ばれた男は李信の子孫であった!?

2016年2月11日


 

信 キングダム

 

キングダムの主人公と言っても過言ではない活躍を見せる李信(りしん)

彼は秦王政の元で農民から這い上がり、最終的には将軍にまで抜擢される人物です。

そんな彼の子孫が漢の時代に居たことを皆さんご存知でしたか。

李信の子孫の名は李広(りこう)と言います。

 

彼は弓の達人で、岩を貫くほどの強弓を射る事ができる人物でした。

また漢の「飛将軍」と呼ばれ、名将の誉れ高い人物でした。

 

自称・皇帝
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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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若い頃から弓の達人として有名

弓矢を構える李広

 

李広は秦の将軍であった李信の子孫です。

漢の全盛期であった文帝(ぶんてい)・景帝(けいてい)・武帝(ぶてい)

と三代の帝に仕えた人物です。

彼は若い頃から弓術に優れ、馬上から射る弓の正確さは漢国一と

言われるほどでした。

 

 

 

呉楚七国(ごそななこく)の乱

李広

 

文帝が亡くなり景帝の時代になると、南方の楚で大規模な反乱が起こります。

李広は漢の功臣である周勃(しゅうぼつ)の息子・周亜夫(しゅうあふ)

の部下として鎮圧軍に参加。

李広は周亜夫と共に反乱軍の鎮圧で功績を残します。

 

—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代

 

匈奴の備えとして北方の太守を歴任

 

李広は反乱鎮圧後、北方の異民族匈奴の備えとして、中華北方の太守を歴任します。

北方の太守を歴任している時、数千の匈奴軍が攻め込んできます。

この時李広は手勢数百騎で出撃。

彼は匈奴軍の姿が近づいてくると、部下の兵士達全員に馬を降りるように指示します。

匈奴軍の大将は近くの部下に「李広はああやって軍全員を馬から

降ろし、我々を誘っているのだ。あやつの後ろには数万の本隊が控えている

はずだから、ここは退却する」と告げ、匈奴軍は全員退却します。

こうして少数の兵で数千の匈奴軍を撃退した李広の名は漢国全域に

広がり、匈奴軍からも恐れられる存在となります。

 

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兵士から絶大な人気を誇る

騎馬兵にあこがれる歩兵

 

漢の景帝の時代、程不識(ていふしき)という名将がおりました。

彼の軍勢は編成や隊列など一切乱れず、規律正しい隊でした。

しかし李広の軍勢は程不識の軍勢と比べ、すべての点においてゆるく、

休憩の時も場所は指定するが、特にルールなど設けず自由に休ませます。

この姿を見た程不識は「俺の軍は敵が襲撃をかけてきてもすぐさま対応し、

撃退する事が出来るが、李広の軍では敵が襲撃をかけてきた際、

全滅するかもしれんが、兵は喜んで奴の為に死ぬであろう。」と

李広を評価。

漢の兵士達は皆李広の配下になる事を求め、その人気は現在のトップアイドル級でありました。

 

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虎と石を間違える李広

虎士(黒豹)

 

李広はある日部下を連れて狩りに出かけます。

すると目の前に大きな虎が待ち構え、こちらをのぞき込んでいます。

李広は驚きとっさに弓矢を構え、その虎へ射こみます。

すると虎の脳天に矢は突き刺さります。

李広はとっさの事で分からなかったが、目を凝らしてよく見てみると

虎ではなく大きな虎の形に似た、岩でした。

李広は石だと分かりほっとします。

このちょっと抜けた感じは、先祖であるキングダムの李信に似ておりますね。

 

連戦連敗の李広

信 キングダム

 

李広は景帝の時代には対匈奴戦で幾度も功績をあげ、匈奴から「飛将軍」として恐れを抱かれます。

しかし漢の武帝の時代になると匈奴に勝てなくなります。

前129年の匈奴との戦いでは、李広は一時的にではありますが、

匈奴の捕虜になってしまいます。

何とか匈奴の隙を伺い逃げる事に成功しますが、この時の敗戦により、庶民に落とされてしまいます。

さらに前123年・前121年に行われた匈奴との戦では、庶民から将軍へ復帰し、

漢の大将軍衛青の配下として出陣しますが、やはり勝てませんでした。

 

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「飛将軍」最後の戦

信 キングダム

 

李広は戦に勝てない理由を探りますが、一向に解決しないまま月日は過ぎていきます。

武帝は匈奴に連勝を続けている衛青に匈奴討伐の命令を下します。

この匈奴討伐戦に李広の名前は入っておりませんでした。

そのため彼は武帝に「ぜひ私も出陣させてください」と嘆願します。

武帝は「だめだ。お前はここに残れ」と従軍の許可を出しませんでした。

しかし李広は諦めず再度嘆願。

武帝は李広のしつこさに呆れ、彼に匈奴討伐軍の参加を認めます。

李広は衛青の配下として従軍します。

そして衛青から「将軍。軍を分割して進軍したいと思います。

将軍には私と別れ、別働隊を率いてもらい、匈奴軍の背後に回ってください」と

作戦を指示されます。

李広は頷き、衛青と別れ進軍を開始。

しかし李広は道に迷って衛青との刻限に間に合わず、匈奴との戦いは

衛青軍のみで戦い大勝利を収める事になりました。

李広は配下の者が罪を負わないよう、自らの首を刎ね、自害します。

こうして漢の「飛将軍」と言われた李信の子孫李広は最後まで

配下の者を気遣い亡くなります。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

司馬遷は「私は李広将軍と話した事がある。彼は口数が少なく、話は下手。

生真面目に見えるも洗練されていなかった。しかし彼が自害した日、彼の事をまるで

知らない者までもが李広将軍の死を悲しみ哀悼をささげていた。

また漢の皇帝三代に仕えた李広の忠誠を朝廷の臣下は皆評価していた。」と記して居ます。

李広は漢の将軍として最後は匈奴に勝利する事無く終わってしまったが、

部下や民、漢の群臣からは大いに慕われていた人物でありました。

キングダムの李信も李広のような将軍になるのでしょうか。

今から楽しみですね。

今回の前漢のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃまたにゃ~

 

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