曹家の重鎮・夏候惇(かこうとん)と夏侯淵(かこうえん)は武勇に優れた逸材でした。彼らの子供達も優秀な人物が多く、夏候覇(かこうは)や夏侯尚(かこうしょう)などがおります。彼らは軍事面で魏国に尽くします。夏侯家は軍事を司る家だと思っている方が多いかもしれませんが、政治面において非常に優れた人材を輩出しております。その人の名前は夏侯玄(かこうげん)と言います。彼は夏侯尚の息子で、魏国の臣下から逸材と褒め称えられておりました。
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若い頃から高い名声とプライドの高い人物
夏侯玄は若い頃から名声が高く、弱冠20歳にして散騎・黄門侍郎(皇帝の身の回りの世話係)に任命されます。彼はプライドも高く、皇帝曹叡(そうえい)から意見を求められた際、身分の低い家臣が同席していたため、不機嫌になります。曹叡は身分の低い家臣が同席していることが、夏侯玄の不機嫌の理由である事を知り、左遷します。夏侯玄は左遷されても、後悔せず職務に励みます。
曹爽の側近に取り立てられる
曹叡の死後、魏の政権を司馬懿(しばい)と曹爽の二人が協力して支えていきます。夏侯玄は曹真の妹の子供であった事から、曹爽に取り立てられて行きます。彼は非常に人を見る目に富んでおり、彼が中護軍になった時、推挙した武官は優れた人材が多く魏の国で活躍していきます。また彼は統治能力にも優れており、各地の州郡を統治した際、独自の法律を制定。彼が制定した法律は西晋時代にまで模範にされたそうです。
魏の政権改革論で司馬懿と対立
夏侯玄は司馬懿から「魏の国を良くするにはどうすればよいのか」と相談されます。すると彼は「重複する官職を無くし、官吏に登用する人材の採用を厳しくするなどの法律を制定すれば国家は良くなるでしょう」と提言します。しかし司馬懿は「君の提言は魏の国家に取って非常に益をもたらすものだが、この政策を行えば、周りから反発を招くだろう。そのため、優れた賢人が出現するまで待った方が良いだろう」と反論。この発言を聞いた夏侯玄は「殷の伊尹(いいん)や周の周公旦(しゅうこうたん)に匹敵する人材がいるのに、これ以上の賢才を待ってから改革を行えとは、どういう了見か。」と意見を述べます。この発言には「あなたや私がいるのに、どうしてこれ以上の賢才を待たねばならないのか。」という意味で発言しますが、司馬懿は苦笑いをし、その場を去ってしまいます。司馬懿はこの時すでに魏の王朝を見限り、自らの勢力拡大を図っていたのではないかと思われます。
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