なんて卑屈な子供かしら。
ひとのご機嫌をうかがって
へりくだるばかりの、いやな子。
はじめはそう思っていた。
目の前で、裏が透けて見えるほど薄い羅紗が開かれた。
白木と香柏(ひのき)を組んで作られた中ぶり寝台が現れ、
片隅に伏せっていた女性が面を上げる。
「母上、丁(てい)夫人がお越しくださいました」
幼い男児がたどたどしい声で告げると、
弱った女性の声がする。
「丁さま、このようなところへ
足をお運びいただき、本当に申し訳ございません」
乱れた黒髪は、つやもなく、
一本のかんざしさえ挿せないほど、細っている。
それは、病によってかつての美貌を嘘のように失った
劉(りゅう)夫人だった。
ともすれば折れてしまいそうに痩せた腕を
彼女の生んだ子供、曹昂(そうこう)が支えて起こす。
「おまえも、丁さまにご挨拶なさい。
きちんと、教えたとおりに礼を尽くすのですよ」
曹昂は母の言葉を受けて
背筋を伸ばし、わたくしに向かった。
幼いながらも
かつての劉夫人が誇った艶やかな美貌と
孟徳さまの怜悧な眼差しを受け継いだ
見目麗しい姿をしている。
曹昂は膝を折り、床にひれ伏すと
凛とした声で言う。
「母上さま。
曹昂子脩(ししゅう)、誠心誠意
父母の孝をつくします。
どうかよろしくお願い申し上げます」
「丁さま、私からも重ねてお願いします。
子供たちを、どうか、どうか
よろしくご指導くださいませ」
くだらない茶番だった。
世間一般的に、継母と継子がうまくいくはずがない。
ましてわたくしは
孟徳さまにのぞまれ、嫁いでから何年も過ごしているというのに
子供ができない身。
わたくしの目の前で、
立て続けに三人もの子を産み落としたこの控えめな女性と、
腹を割って話したことなど、これまでなかったのだから。
でも、彼女の臨終のときに
そんな言葉を投げつけるほど
わたくしも冷たい女ではないつもりだった。
頭を下げる劉夫人と曹昂の母子を見て、
わたくしは浮かべ慣れた作り笑いを顔に貼りつけた。
「劉さま、あとのことは
すべてこの丁にお任せください。
子脩殿、なさぬ仲ではありますが、
どうか遠慮なくわたくしを頼ってくださいね」
安心したように顔をゆがませ息をつく劉夫人と
緊張したままこわばった顔をしていた曹昂は
とても対照的に見えた。
その数日後、
劉夫人は静かに息を引き取った。
曹昂(そうこう)は、わたくしがなにを言っても反論しない子供だった。
「子脩(ししゅう)殿、『六韜』(りくとう)のお勉強は
きちんと進めているのですか?」
「もうしわけございません、母上さま。
午前中は、妹の清河(せいか)と遊んでしまいました。
午後には必ず机に向かいます」
「弓のおけいこもしなくてはなりませんよ。
あなたは騎射が得意ではないでしょう」
「さすが母上さま、なんでも見透かされてしまう。
ご助言をありがとうございます。はやく父上のお力になれるよう、
武芸にも精進します」
曹昂は決まってにこやかに笑い、
ぺこりと頭を下げてかしこまる。
……かわいくないわ。
子供というのは、もっと喜怒哀楽を単純にあらわすものだ。
お小言を言われれば、むっとするだろうし、
勉強やけいこよりも、遊びたいと思うもののはず。
曹昂はおそらく、怖れているのだわ。
義母のわたくしの機嫌をそこねることを。
これでもわたくしは孟徳さまの一の妻だから。
孟徳さまの息子は、曹昂ひとりではない。
ともすれば、自分が嫡子としての足をすくわれる立場にいることを
子供ながらにわかっているのだろう。
いつわりの笑顔でなにごとも受け流していれば、余計な波風は立たない。
面倒事から目をそらす、もっとも賢い身の処し方だ。
そう、まるでわたくしのよう。
だからこそ、見ているといらいらする。
左手で髪をすくと、しゃくやくの花をかたどった
おおぶりのかんざしが手に触れた。
むかし、孟徳さまがわたくしのためにと選んでくださったものだ。
わたくしは機織り機に向かう。
そこには、織りかけの衣がかかったままになっていた。
薄桃と白糸で織りあげた淡い小花模様は、
大ぶりで凛としたしゃくやくの花と違って、
小さく可憐で、たおやかな女性らしいつくりになっている。
手を伸ばし、そっと機織り機に手を這わす。
孟徳さまからじきじきに指定されたこの柄は、おそらく
あの方がこの頃入れあげている、卞(べん)とかいう歌妓に
着せるためのものだろう。
それをわかっていて、言葉をのみこみ、笑顔で引き受けるわたくしも、
曹昂と、なんら変わりのない、かわいらしくない女だった。
「あっ、痛いっ……」
右手の中指から、血がにじむ。
経糸をぴんと張る木の棒がささくれ立っていて、
そこにひっかけたようだった。
「母上さま、いかがされましたか!?」
わたくしの小さな叫びを聞いて、
隣の部屋にいた曹昂が飛びこんでくる。
「見せてください。たいへんだ、血が出ている!
誰か、薬師を!」
「まあ、大げさだわ。薬師なんていらないわよ」
「いいえ、木端が指に残っていたりしたらいけません。
それに、この機織りの棒、ずいぶん使い込まれて
傷んでいるではありませんか。
誰かに言って、取り換えさせましょう」
……いらいらする。
「けっこうよ!」
わたくしは、思わず叫んでいた。
曹昂は目を丸くしてこちらを振り返る。
「この機織り機は、孟徳さまからいただいたもの。
気軽に部品を取り換えたりしたくないの。
それに……」
わたくしは、鋭い眼差しでまっすぐに曹昂を見据えて言った。
「こんなことは、あなたの仕事ではありません。
あなたは父上をお助けするために
一心不乱に自分磨きをしていればよいのです。
まずは、今日のなすべきことに取り組みなさい」
曹昂は、はっとしたように息をのみ、やがて静かにうつむいた。
「……申し訳ございませんでした」
言い過ぎた。
そう思った。
けれど曹昂は、またしても何も反論せず、自室へ戻っていく。
「お方様、あれでは子脩殿がおかわいそうです」
侍女のひとりが、見かねたように口を尖らせた。
「そうね、でも……、
あの子には学ぶべきことが山ほどあるのよ。
余計なことに気を取られている場合ではないわ」
「お言葉ですが」
侍女は咳払いをすると、胸を張って言う。
「子脩殿は、お方様から渡された『六韜』は、
すでに暗記を終えています。
弓のけいこも、誰より早く起きて早朝から
精を出されていましたよ」
「なんですって?」
それなのに、なぜ曹昂は、にこにこ笑って
わたくしに従おうとするのだろう。
……いやな子。
わたくしは眉をひそめ、喉の奥で小さくつぶやいた。
翌日、
機織り機の横棒が、やすりで丁寧に磨かれて、つるつるになっていた。
侍女に尋ねれば、
曹昂がやってきて、手ずから処置したという。
……なぜ?
何もしなくていいと言ったのに。
こんなことをして、
わたくしの歓心が買えるとでも思っているのだろうか。
庭から、子供たちの笑い声がする。
わたくしは意を決して、庭に降りた。
曹昂(そうこう)と清河(せいか)の兄妹が、
濃紺の水をたたえた広い池のほとりで遊んでいる。
いち早くわたくしの姿をみとめた清河が、
きゃっきゃと無邪気な笑顔を浮かべて、こちらに両手を伸ばした。
生まれてすぐに生母を失った清河は、
わたくしのことを本当の母親だと思っていて、いつもむくな瞳を向けてくる。
わたくしは涼やかな風に領巾(ひれ)をなびかせながら
二人に歩み寄り、清河を抱き上げた。
「母上さま」
曹昂は立ち上がり、爽やかな笑顔を浮かべた。
「それでは、僕は、けいこの続きに戻ります」
「お待ちなさい、子脩殿。機織り機のことだけれど」
曹昂は指摘されると、座り直した。
ばつの悪そうな顔をする。
「勝手なことをしてすみませんでした。お叱りは受けます」
曹昂の言葉に、違和感を覚える。
わたくしに気に入られようとして、したことではない……?
損得なしで、わたくしを気遣ってくれたということ?
どうしてなの?
……これではまるで、この子から、好かれているようだわ。
腕の中で、何もわからない清河が、
ぶーっと泡を吹いて笑った。
曹昂も、まなじりを下げ、笑み崩れる。
「本当は、もう二度と怪我をしないように、新しいものに
変えてしまいたかったんです。でも、父上から贈られた
大切なものだとお聞きして……。
磨くだけにしました。
母上さまの優しい手が傷つくことが、耐えられなくて」
「わたくしの手は……優しくなどないわ」
ぽつりとつぶやくと、曹昂は跳ね上がるように顔を上げる。
「そんなことはありません!
母上さまは、僕の、一番大切なものを守ってくれた
本当に、本当に優しい方です!」
「一番、大切なもの……?」
「僕の母……『劉夫人』と呼ばれていた実の母ですが、
死の直前、ずっとずっと僕ら子供たちの行く末を案じて
泣いてばかりだったのです。
死んでも死にきれないと、繰りかえし言っては、むせび泣いていました」
「でも、あの日、見舞いに来てくださった母上さまが
まっすぐで優しい顔をして、母を救ってくれたのです。
母は病を得てから初めて笑い、そして、安らかな顔をして亡くなりました。
……だから、僕は決めたのです」
曹昂は強い眼差しでわたくしを見つめる。
「母上さまのように、強く優しくありたい。
そして……、今度は、母上さまの一番大切なものを、僕が守ります」
わたくしの、大切なもの……?
とっさに、髪をかきあげた左手が、しゃくやくのかんざしに触れる。
「だぁ!」
胸に抱いていた清河が、はしゃいで小さな手を伸ばし、
わたくしのかんざしを引っ張った。
「あ……」
ばさりと黒髪の束が落ち、それに驚いた清河は、
手に握ったかんざしを、力いっぱい放り投げる。
かんざしは、空で緩やかな弧を描き
カエルが飛び跳ねたような音を立てて、池の中に沈んでいった。
「僕がとってまいります!」
そう叫ぶや否や、曹昂(そうこう)は池に飛び込んでいった。
池底の泥が跳ねあがり、衣の裾に赤茶のしみを作る。
思わずぼうぜんとしてしまったが、
はっと我に返った。
「やめなさい、子脩(ししゅう)殿!
そんなものは、捨て置いていいの!」
この池は、魚を育てるために作られたもので、
中央付近は大人でも背が立たないほど深くなっている。
「誰か!」
振り向けば、侍女たちもおろおろとしている。
「早く人を呼んできて! 子脩殿を助けて!」
わたくしの剣幕に驚いた清河(せいか)が、高い声を上げて泣き始める。
どっと不安が胸に押し寄せた。
まさか、こんなところで、曹昂を失うことになったら……。
そう考えただけで、意識を失いそうになるほど、目の前が真っ暗になった。
いつのまにかわたくしは、濡れた地面にへたり込んでいたようだった。
しばらくして、
すっと、手元を影が覆う。
泣きじゃくっていた清河が、
泣くのをやめて「あっあー」と声を上げ、腕をすり抜けて行った。
「母上さま、こちらで間違いありませんね?」
日の光を浴びて、きらりと光る銀色のかんざしが目の前に差し出される。
「父上から贈られたかんざし……、母上さまが
いつも大切そうに触れていらっしゃるものですから、
絶対に無くすわけにはいきませんでした」
顔を上げると、頭からぽたぽたとしずくをしたたらせた曹昂が、
太陽を背に笑っていた。
……だから、あとさき顧みず、深い池に飛び込んだと言うの?
わたくしはゆらりと立ち上がると、曹昂を見下ろす。
喉の奥が震えてたまらない。
絞り出すように、声を張り上げた。
「……こんなものは、ちっとも大切ではありません!」
私は両手を広げると、力いっぱい曹昂を抱きしめた。
曹昂の体は想像していたよりも小さく細くて、
そして氷のように冷たかった。
「あなたは死にたいの!?
誰かを思いやるのではなく、自分自身を大切になさい!」
「母、上さま……?」
戸惑う曹昂の声がする。
わたくしは、抱きしめる腕にさらに力を入れた。
曹昂は、自分は後回しにして、周りのことばかりを考えている子なのだ。
それは、この子の生まれ持った優しさかもしれないし、
生きていくために必死につちかった強さかもしれない。
でも……、
それでは、いつかこの子は壊れてしまう。
誰かが受け止めてやらなければ。
その誰かは、きっと母親のわたくししかいない。
「子脩殿、約束して。
まずは自分自身を大切にすると。
誰かを思いやるのは、その次にして。
これは、母からのお願いだから、必ず聞いてちょうだい」
腕をほどくと、幼子を諭すようにじっと見つめる。
曹昂はわたくしのまなざしの下で、居心地が悪そうに身じろぎすると
ぼそぼそと言葉を紡いだ。
「それでは……、僕からもお願いがあります。
僕のこと、字(あざな)ではなく、
昂(こう)と呼んでください」
諱(いみな)は、ごく親しい人しか呼ぶことの許されない名前だった。
子供とはいえ、孟徳さまの嫡男である曹昂を諱で呼ぶことは
はばかられたので、これまで字で呼んでいたのだが。
わたくしは、ゆっくりとうなずいた。
「わかりました、昂」
「母上……」
曹昂の頬に、一筋のしずくが流れた。
自分でも、想定していなかった涙だったに違いない。
とっさに曹昂は頬を赤く染めて、顔を背けた。
わたくしは自然と笑みを浮かべると、再び胸に曹昂を抱いた。
この日から、わたくしたちは、本当の親子となった。
それから数年後、
曹昂は立派に成長し、
20歳という若さで、孝廉(こうれん)から中央に
推挙されるほど優秀な若者になった。
時は197年、
曹昂は、孟徳さまにつき従い、宛城(えんじょう)攻略の戦に赴いていた。
夜半、わたくしは寝室に誰かの気配を感じて飛び起きる。
青白い月明かりが差し込む部屋の入り口に
ぼんやりとたたずんでいたのは、
戦装束に身を包んだ我が子、曹昂だった。
「まあ、昂! どうしたのです?
帰陣するなんて連絡を受けていませんよ」
枕元に掛けてあった背子(ガウン)をはおり、靴を履きながら尋ねる。
すると、不思議なことに、曹昂の輪郭がゆらりと揺れた。
整った眉宇を困ったようにしかめ、
湯船で発する言葉のように妙に反響する声で告げる。
『母上、申し訳ございません。
約束を守れませんでした』
「約束……?」
『でも僕は、後悔しておりません。
母上の、一番大切なものを守ることができましたから』
「何を、言っているの?」
立ち上がろうとした瞬間、ざっと強い風が窓から吹き抜けた。
とっさに窓の外を見れば、
空が、血を浴びたように真っ赤に染まっていた。
「お方様……!!」
廊下からあわただしい複数の足音が聞こえて来た。
振り向いたそこに、曹昂の姿はない。
煙のように忽然と消えてしまっていた。
そこへ、ばたばたと侍女が飛び込んで来る。
髪を振り乱し、息をきらせて、信じられない報告を口にした。
「たった今、宛城より早馬が来て……、子脩殿が討ち死になされたと!」
「なん……ですって?」
「お父上を逃がすために自らが囮となり、
ご立派な最期だったとのことです……」
言い終えるや否や、侍女は「わああ」と慟哭して床に伏した。
「そんな……、まさか……」
わたくしは、ふらりとよろけて窓枠に身を預けた。
空には、真っ赤に染まった昴宿(ぼうしゅく)が浮かび、
まっすぐにわたくしを見下ろしていた。
――母上の、一番大切なものを守ることができました
違うわ。
そうではないのに。
わたくしの一番大切なものは……。
失われた愛しいわが子、昂――
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この記事を書いた人:東方明珠
■自己紹介:
通称「はじさん」のはじっこライター東方明珠です。
普段は恋愛系のノベルやシナリオを書いています。