幼い皇帝の後見人である外戚が政治の実権を握っていた時代から、
皇帝主導の政治に切り替わるのが、後漢11代の桓帝や12代の霊帝のときです。
皇帝が意のままに政治を牛耳ろうとしたときに、その手足となって働いたのが宦官たちでした。
宦官主体の政治
宦官の権力への執着は異常なものとなっていきます。
そんな宦官勢力の専横を苦い目で見ていたのが、地方からきた孝廉出身の中級官僚たちです。
彼らは孝行にして廉潔で自分たちを「清流派の官僚」と自負していました。
やがて清流派と「濁流の系譜」と罵られた宦官や堕落した高官たちがぶつかり合うときがきます。
党錮事件(党錮の禁、党錮の乱とも呼びます)
167年第一次党錮事件 清流派の李膺ら二百人以上が逮捕されます。
169年第二次党錮事件 李膺ら清流派百人が処刑されました。
この二度の清流派の大弾圧で清流派は沈黙せざるを得なくなり、
地下活動に移っていきます。
自然と遊侠の徒や商人などと係わることが多くなったことでしょう。
弾圧された清流派への応援の声が強まっていきます。
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みんな一時は遊侠の徒
袁術も若い頃は、宦官が仕切る政治なんて馬鹿らしいと思い、放蕩する遊侠の徒でした。
今でいうニートですね。
実は曹操も袁紹も劉備だってそんな頃があったのです。
よっぽど宦官による腐敗した政治に絶望していたのかもしれません。
しかし、それが揃って官位につきます。地下活動をしていた清流派との接触で刺激を受けたのではないかと思われます。
そして宦官が支配する中央政府で働き始めるのです。
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袁術も孝廉に推挙される
袁術の場合は、完全に袁家のコネでしょう。父や叔父が三公ですから当然です。
エリート街道まっしぐらで出世していきます。
そんな中で、志高い孝廉出身の仲間たちに感化された部分もあるのかもしれません。
袁紹は袁隗に叱られて目が覚めたようですね。袁術も同じだったのかもしれません。
歴史書によると袁家の今後を期待されていたのは風貌の良い袁紹だったようです。
どちらにせよ袁家は清流派の筆頭となっていきます。
皇帝直属の部隊
袁術は霊帝の外戚で大将軍の地位にあった何進の下、
皇帝直属の兵を指揮する「虎賁中郎将」というエリート将校となります。
そして何進・袁隗らが働きかけて党錮事件で連座し謹慎処分となっている清流派の政治家たちを中央に戻すのを手伝ったのです。
クーデターは成功?失敗?
189年8月、大将軍の何進が宦官たちに殺されますが、袁家はこれ幸いにと宮中に剣をもって乗り込み宦官を大虐殺します。
数千名が殺されたともいわれています。力技です。
袁家からは袁隗や袁紹が兵を率いて乗り込んでいる記録がのこっています。
このとき宮中から門を開いて袁隗らを招き入れたのは宮中の兵をまとめていた袁術だったのではないでしょうか。
しかし皇帝の身柄を董卓に押さえられ、新帝の廃位問題でもめて袁術、袁紹は悔しがって洛陽を出奔するのです。
ただし、董卓は袁隗を太傅、袁術を後将軍に任じて取り込もうとしていました。
強烈に董卓に抗っていたのは袁紹だけだったのではないでしょうか。
とにかく宦官も外戚もいない、清流派中心(董卓独裁)の新しい政権が樹立されます。
夢は実現されたのです。
ここで事実上、漢帝国は滅んだといってもいいでしょう。
袁術らのクーデターはある側面では成功であり、逆の側面から見ると失敗でした。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
宦官による腐敗政治を憎んでいた袁術は、袁紹と手を組みます。
あまり注目されることが少ないですが、宦官による腐敗政治にとどめを刺したのはこの兄弟なのです。
なんだか董卓の上がる舞台を作ったに過ぎないような言われ方をよくされます。
それは酷ですね。
無念の思いで死んでいった清流派の恨みを晴らしたのは袁術なのですから。
もっと評価されてもいいはずです。
ただ、皇帝直属の兵を率いていた袁術が、肝心の皇帝を見失っていたのは問題ありますが・・・。