春秋時代は、アホな周の幽王(ゆうおう)が妃を廃して、褒姒(ほうじ)という美女を妃に立てた事が原因になりました。妃の父の申侯(しんこう)はこれを恨み異民族との連合軍によって、周の首都が陥落させ、幽王を殺してしまいます。これが、紀元前770年、春秋時代の始まりです。
そして、春秋時代の超大国だった晋が、元は家来だった六卿の生き残り、趙氏、魏氏、韓氏に国を三分割された紀元前453年に終わります。さて、その後、時代は戦国時代に入ってきます。今回は、その戦国時代をざっくりと紹介しちゃいます。
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この記事の目次
戦国時代は、春秋末期に生まれた新勢力に牽引される
戦国時代とは、諸説ありますが、はじさんでは、晋が趙、魏、韓の3つに分裂した紀元前453年を最初とします。そして、お馴染み、秦の始皇帝が戦国七雄を滅ぼして天下を統一する、紀元前221年が、戦国時代の終わりで232年間あります。
さて、春秋時代末期においては、周王朝に封建された各地の諸侯の力が衰えて、その家臣である貴族達の力が強まり、主家を乗っ取るようになります。それが、一番、顕著だったのが大国晋を三分割して後に滅ぼした、晋の六卿の生き残り、趙、魏、韓の3国です。
さらに、元は太公望(たいこうぼう)が興した、東の斉も、亡命貴族だった田氏(でんし)の末裔である田和(でんわ)が、紀元前386年、斉公を滅ぼして国を簒奪(さんだつ)します。
※この事から、太公望の斉を羌(きょう)斉、田和の斉を田斉と区別します。つまり、戦国七雄の過半数の4カ国が、新しく下剋上で生まれた国なのです。
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新興国は、権威が欲しくて、周王室に頼る
戦国七雄で、秦、楚、燕を除く、4カ国が新興国であるという事は、彼等に、主家を乗っ取ったという後ろ暗さを残します。そこで、この4カ国は、滅亡寸前で、勢力争いをしている周王室に近づき、諸侯に立ててもらいます、それにより紀元前403年に、趙・魏・韓は、諸侯になり、田斉も紀元前386年には諸侯になりました。
4カ国は、表面上は、周王室を敬うようになり、こうして、消えそうな周は、もう少し寿命を繋ぐ事になりました。
最初に抜けだしたのは、魏の文侯(ぶんこう)
春秋時代の末から、それまで、同じ血族同士が一つの邑に住んでいた、中国の社会体制は変化しました。まず、青銅器や鉄が使用されたり、灌漑技術が発達する事で、農業生産力が飛躍的にあがり、多くの人口を養えるようになります。また、戦乱の連続で国境線が変化したり、商業が発展して、交通の便が良くなると、豊かな邑を目指して、様々な人が、なだれ込んでくるようになります。
こうして、血族絶対の硬直した社会は成り立たなくなり、必然的に、身分を問わず、才能がある人間が引き立てられるという実力主義の社会が到来します。
それを実践したのが魏の文侯でした。彼は、彼を輩出した、魏がまさに成り上がり者であった事を忘れず、李克(りこく)、西門豹(さいもんひょう)、呉起(ごき)、そして、楽洋(がくよう:キングダムレジェンド楽毅の祖)というような、有能な人材を続々登用して、魏を強くします。これらの人材はいずれも、出自は大したことがないのですが、才能はずば抜けていて、文侯の治世に大きな貢献をしました。
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魏、100年以上も繁栄するが、恵王の時代に没落。
元々、魏は、晋でも、もっとも早くから開けた文化の中心地でした。その事で、優秀な人材が集まれば、即座に強国になる条件が整っていたのです。文侯が築いた、魏の基礎は、次の武侯、そして孫の恵王の時代までの繁栄をもたらすようになります。
しかし、魏は三代目の恵王の時代に奢りが出ました。それまで周王朝に遠慮して王を名乗らなかったのを名乗るようにするなど、プライドと野心が高い恵王でしたが、お気に入りの将軍、龐涓(ほうけん)が、斉の軍師、孫臏(そんびん)により、馬陵の戦いで撃破され勢力を失います。さらに、かつて、恵王に仕えていた公叔座(こうしゅくざ)が、推挙していた公孫軮(こうそんおう)を恵王は無視していましたが、公孫軮は秦に行って、孝公(こうこう)に仕え、法家の術で秦を強化してしまっていました。
斉に敗れて、勢いが落ちた魏に、紀元前340年、今は商軮と名乗る公孫軮が襲い掛かり、敗れた魏は、都を安邑(あんゆう)から大梁(たいりょう)に移す程の大損害を受けます。
「あの時、公叔座は、公孫軮を用いないなら、殺して禍を除けと言ったが余は、それを戯言と思って聞き流した、悔やまれてならぬ・・」
紀元前319年、恵王は病床で自身の眼力の無さを嘆きながら死にました。この後、魏は隣の韓と共に、斉そして秦に臣従する惨めな衛星国に没落します。
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