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三国志の時代の鎧は防弾チョッキ感覚だった?周、殷、キングダムまで鎧を徹底紹介!

2016年4月17日


 

曹操

 

私達が身を守る防具として第一に思い浮かぶのが鎧でしょう。

遥かな大昔から、人類は戦闘では皮膚に何かを巻きつけて身を守っていました。

そこで、今回は、三国志の時代の鎧をメインにキングダムの時代や、

周、殷の時代の鎧を紹介していきましょう。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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後漢の時代は鎧の革新の時代

朝まで三国志 公孫瓚

 

戦乱の後漢時代は、鎧の発展をもたらしました。

漢の時代以前の兵士の鎧は革製が多く、鉄製の鎧は上級士官のみでしたが、

後漢の時代には、鉄の精錬技術も上がり、その分、鉄の鎧も安価になります。

そこで、兵士にも標準装備で魚麟甲(ぎょりんこう)が使用されるようになります。

 

魚麟甲は、丸くて薄い鉄の板を紐で編んだもの

魚麟甲とは、薄くて丸い鉄の板に穴を開けて、 紐を通し編んだ鎧です。

丸く薄い鉄板が魚の鱗に似ているので、この名前があります。

これは、以前からある細長い鉄の板を綴った鎧よりも動きやすく、

また、脇の下などを柔軟にカバーできるので、袖つきの鎧という意味の、

筩袖鎧(とうしゅうがい)とも呼ばれました。

 

孔明 出師

 

諸葛亮孔明の発明ともされますが、すでに前漢時代の末には、

存在していたとも言われますので、孔明は、それを改良したか、

或いは、適当に名前だけを借りられたのでしょう。

 

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びっくり三国志の時代には、鎧の上に衣服を着ていた?

朝まで三国志 公孫瓚

 

三国志の漫画などでは、よく、武将が衣服の片肌を脱いで、

その下から鎧がのぞいているのを見る事があります。

あの衣服は通常の衣服ではなく、戦袍(せんぽう)と呼ばれるものです。

 

中国古代軍閥服装 引用

(写真引用元:中国古代軍閥服装)

 

当時の鎧は鉄板が薄かったので、衣服の下に着込むのも、

そこまで難しくありませんでした。

そこで、戦袍を鎧の上に着込んでいたのです。

今で言うと、防弾チョッキの感覚に近いかも知れません。

 

いわゆる軍師のような文官も、戦争時には、ゆったりした衣服の下に

魚麟甲を着込んでいるパターンもあったようです。

孔明も、道服の下に魚麟甲を着ていたのかも知れません。

 

キングダムの時代の兵士の鎧とは?

信 キングダム

 

では、三国志の時代から400年遡ったキングダムの時代の

兵士の鎧はどんなものだったのでしょうか?

 

当時、鉄は存在しましたが、冶金の技術が不完全だったので、

実際の戦争では信用されていたとは言い難いものでした。

鉄の鎧は重く、もろいので、まだ青銅が使用されていたようです。

ただ、青銅は高いので、一般兵士にまで行き渡ることはありませんでした。

 

かわって、一般兵が使ったのは、牛革を何枚も重ねて束ね札を作り

さらに、それに黒漆をかけて固めたものを、赤紐で複数枚結びつけた鎧で、

札甲(さつこう)と呼ばれました。

兜も同様の方法で造られますが、赤紐と黒漆のコントラストが、

結構カッコいいように思います。

 

東周 引用

(写真引用元:中国古代軍閥服装)

 

この札甲は、肩のところに高い襟があるのが特徴です。

理由は戈のような鉤爪の武器で引っ掛けられて、引っ張られ

頭の髷をつかまれない為でした。

 

髷には霊力が宿るとされ、これを捕まれると、

生命を左右されると当時の人は考えたようです。

 

一方で、指揮官クラスは、漆を塗った牛革に青銅の札を、

紐で結び付けて補強した鎧を使用していました。

おそらく信(しん)もリアルでは、牛革に青銅の札を縫いつけた鎧を

使用していたのかも知れません。

 

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殷の時代の鎧と兜とは

殷の大様002

 

殷の時代になると、鎧は高級将校でも皮製になります。

ただ、色は四色に塗り分けて、かなりカラフルだったようです。

一方で、兜は、青銅を使ったものが存在していました。

 

馬超の兜とまではいきませんが、表面に獣の顔の文様を刻んだもので

3500年前の兜とは思えないほど、精巧な造りです。

 

商(殷)代 引用

(写真引用元:中国古代軍閥服装)

 

一方で殷の時代の兵士となると、これはもう、普段着に、

盾や矛をもったような姿だった事でしょう。

殷の一般兵は、他国の捕虜や奴隷が主力で、少数の正規兵が、

武器で脅して逃げないようにし、戦わせるというような有様でした。

 

当然、士気も低く、また自軍からも信用されていませんから、

高価な鎧など使わせなかったかも知れません。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

鎧の発達は武器の発達といたちごっこの関係で続いていきます。

最初は皮鎧だったものが、青銅、鉄になるのは、武器の精錬度が上がり

重さでたたき下ろすタイプから、鋭利な刃物で刺し殺すタイプに変化したからです。

 

元々は、胸や腹など、急所を覆うだけだった鎧も、時代が下り、

火薬などが使用される時代になると、顔の部分以外はすべて覆う、

フルアーマーに変化していきます。

 

一方で戦袍も進化して、布の裏地に鉄板の小札を縫いこんだり、

鋲を打った防御力が高いものも出現します。

元は布なので、表面には華麗な刺繍が施され、一見鎧には、

見えないほどに華麗になります。

 

清 防具 引用

(写真引用元:中国古代軍閥服装)

 

本日も三国志の話題をごちそうさま

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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