これは凄い!巨大な関羽像が荊州に現れる!実は二千年前から巨大像が好きだった中国人

2016年7月17日


 

関帝廟 関羽

 

桃園三兄弟の一人として、三国志演義の主役的な立場であり、

死後は軍神、商業の神として讃えられ、世界各地に関帝廟が立つ

豪傑、関羽雲長(かんう・うんちょう)。

 

関羽像2

 

そんな彼の偉業が21世紀の現在、巨大な銅像としてあの荊州に出現しました。

三国志の登場人物像でも唯一、ゴジラに勝てそうな関羽の雄姿をご覧あれ!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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建立場所は、あのいわくの荊州市

関羽像6

 

関羽の銅像は、湖北省、荊州市にある公園に建立されました。

そう三国志のエポックメイキング、赤壁の戦いの舞台の荊州です。

 

関羽像3

 

銅像は、重さは1320トン、高さは58メートル、デザインは、

北京オリンピックのマスコットキャラをデザインした、ハン・メイリン氏

 

関羽像

 

中国の銅像というと、伝統的に日本人の感覚では「アレ?」な感じの

モノが多いですが、この関羽像は大丈夫、、重厚なデザインに加えて、

三国無双に登場しそうな躍動感を備えていて、

まさしく、ゴジラにも勝てそうな迫力と威厳を持っています。

(写真引用元:Bored Panda

 

遥か、二千年前から、デカイ銅像が好きだった中国人

始皇帝

 

さて、中国人のデカイ銅像好きは、今に始まった事ではありません。

紀元前221年、中国史上、初めて統一国家秦を建国した始皇帝(しこうてい)は、

臨洮(りんちょう)に出現した長人を参考に、咸陽の阿房(あぼう)宮の前に

全部で十二人の金人像を造らせました。

 

不老不死 始皇帝

 

この金人は、始皇帝が攻め滅ぼした六国の武器を溶かして得た青銅で造られ

高さ五丈、足のサイズは六尺、すべて外国人の姿と服装をしていました。

また武器を溶かすというパフォーマンスからは、これからは武器の要らない、

平和な時代がやってくるという始皇帝の考えが伺えます。

 

五丈は今なら15メートル、六尺は180センチという事になります。

また、重さは小さなモノでも千石あったそうで、こちらも、

今の重さで考えると、150トンという事になります。

さすがは、始皇帝、やる事成す事、スケールがデカイですね。

 

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数奇な運命をたどる十二金人・・

 

しかし、始皇帝の願いもむなしく、

秦の時代は15年で終わり、戦乱の楚漢の戦いが巻き起こります。

楚の項羽(こうう)は、咸陽に入城すると阿房宮に火を放ち焼き払いますが、

流石に「デカイ」「重い」「移動が大変」の三拍子揃った十二金人は

持てあまし、放置して去っていきます。

 

項羽を倒して天下を取った劉邦(りゅうほう)の政権、漢王朝は

十二金人にも敬意を払い、長楽宮の大夏殿の庭に移動させます。

(写真引用元:互动百科)

 

十二金人にトドメを刺した、暴君、董卓(とうたく)

朝まで三国志 董卓

以来、400年近く、同じ場所に立っていた十二金人ですが、

洛陽を焼き払い、長安に遷都した董卓(とうたく)に発見されてしまいます。

 

董卓「おがっ!!こんな所に銅像があるっぺ!!

ちょうどいい、こいつを鋳潰して、董卓印の銅銭を発行するズラ!

漢のモノはオラのもん、オラのもんもオラのもん!!」

 

こうして、十二金人は、哀れ二体を残して鋳潰されて無くなります。

そんなまでして鋳造された董卓の銅銭は、水に浮く程に薄く、

何の役にも立ちませんでしたが・・

 

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金人、とうとう、歴史から消滅・・

呂布 バックブリーカー

 

董卓は、十体を鋳潰した所で気が済んだのか、

呂布(りょふ)に討たれたのか、分りませんが金人は二体が残されていました。

こうして金人は、今度は、長楽宮から清門の裏に移されて、

ガラクタのような扱いになり、しばらく放置されます。

 

曹叡

 

その後、魏の二代皇帝の曹叡(そうえい)が金人を長安から

洛陽に運ばせようと考えますが、重さ150トンは最低ある金人を

300キロも動かすのは一苦労で、とうとう、霸城(はじょう)まで移動した所で

ニッチもサッチも動かなくなり移動を断念します。

 

五胡十六国時代には、後趙の石虎(せきこ)が、これを洛陽より遠い

鄴(ぎょう)まで移動させます。

しかし、今度は前秦の覇者である苻堅(ふけん)が、鄴まで移動した金人を

再び長安まで引っ越しさせ、そこで鋳潰してしまいました。

 

こうして、時の権力者の都合で、鋳潰されたり、移動させられたりした

元祖巨大銅像の十二金人は、歴史から姿を消しました。

 

始皇帝が鳴り物入りで鋳造させた平和と統一のシンボルは、

最後は倒産したテーマパークの建造物のような最後を辿ったのです。

なんだか切ないですね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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