劉備(りゅうび)が興し、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)が命を削ってまで守り抜いた蜀漢は、西暦263年に、魏の鄧艾(とうがい)そして、鐘会(しょうかい)の手により滅亡し、42年の歴史に幕を下ろしました。
しかし、その時、ただ一人で、滅んだ蜀の名誉を守り戦い抜いた男がいます。蜀のラストサムライ羅憲(らけん)です。
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謹厳、実直で不正を憎んだ高潔な人物 羅憲
羅憲は、荊州襄陽郡の出身です、当時の荊州の州都であり、多くの学者、文人が集う中華の一大アカデミズム都市でした。彼の父、羅蒙(らもう)は、赤壁の戦いの後、頻繁に騒乱が起きるようになった荊州を離れて益州に入り、劉備(りゅうび)の入蜀にあたって、それに従い、広漢太守に任命されました。
それが、羅憲が蜀の臣になる契機だったと言えます。13歳で書を能くしたとされる羅憲は、譙周(しょうしゅう)の弟子になり、同級生には、孔子の弟子の子貢(しこう)に匹敵すると噂されます。
その性格は、嘘が嫌いで誠実、財産を軽んじて施しを好み、また人材を登用する事にも熱心であり、真面目に仕事をして怠けませんでした。いかにも、孔明が取り仕切った蜀の典型的な能吏ですが、孔明が手足として使うには、羅憲はあまりに若すぎました。
羅憲の年齢は、何歳位だった?
羅憲の年齢については、没年が270年で生年が詳しくわかりませんが、西暦221年、皇太子・劉禅(りゅうぜん)の太子舎人になっています。太子舎人(たいし・しゃじん)は、身分としてはあまり高くありませんが、貴族の子弟が任じられ、その後、皇太子が即位するに従い、累進栄達していくポストなので、エリートの部類に入ります。
蜀の黄門様として名高い、劉禅厳しく指導するマンの董允(とういん)が、同時期に太子舎人になっているので、その職の性質が分かるでしょう。主な仕事は、宮中の雑役や行儀見習い、そして皇太子の下問にも答えるのであまりに年齢が上だと変ですし、逆に下だと皇太子に侮られるでしょう。ですので、羅憲の年齢は、大体、劉禅と同じ位で、西暦207年生まれ、15歳程度で、任官したと思われます。
硬骨漢、羅憲、黄皓に阿らず、左遷される
諸葛亮が死去し、さらに蜀の黄門様、董允が死去した西暦246年以後、40歳近くなった劉禅は、凡君の本質をあらわし、宦官の黄皓(こうこう)を重用するようになり、蜀にも宦官の毒が蔓延ります。
多くの蜀臣が時流にあらがえず、黄皓の機嫌を取る中で、羅憲は、そのような態度を微塵も見せませんでした。
黄皓は、賄賂もおべんちゃらも使わない羅憲を憎み、彼を尚書吏部から、巴東太守に左遷させました。そこは、黄皓と仲が良かった、閻宇(えんう)が都督として呉の襲撃に備えていて、有名な白帝城がある永安軍の駐屯するエリアでしたが、実際には蜀の滅亡までは、呉軍の襲撃はなかったので、南蛮地域や、北伐軍よりは暇でした。
※蜀の防衛ラインは詳しくはこちらの記事をご覧ください
蜀滅亡、混乱する永安を鎮める羅憲
西暦263年、蜀の帝都成都は、魏の鄧乂の迂回戦術により陥落、劉禅は降伏し、姜維(きょうい)もやむなく抗戦を諦めます。その情報は、永安にも伝わります。
すでに閻宇は劉禅の命令で成都に戻り、永安城の事実上の責任者は、羅憲でしたが、混乱する永安では、逃亡する役人が続出します。これを放置すれば、治安が崩壊し、城内でやけっぱちの暴動が起きるかも知れません、羅憲は、ここで断固とした措置を取り「成都が混乱している」と騒ぎまわる役人を無言で切り捨てます。
「根拠がない虚報に惑わされ、人心を惑わすものは反逆罪で斬りすてる、謹んで成都からの詳報を待ち、民の不安を鎮めるのだ」
この羅憲の態度に浮足立っていた、永安の役人も静まり、混乱は収まり、城内にも暴動の被害は出ませんでした。やがて、成都から魏に降伏したという知らせが来ると、羅憲は、配下の役人と共に3日間、哭礼を行い蜀の滅亡を悼みます。
卑劣な呉、混乱に乗じて永安に攻め込む
本来なら、ここで羅憲の仕事は終わりの筈でした。ところが、蜀が滅亡した事を知った呉の3代皇帝、孫休(そんきゅう)は、援軍を派遣すると嘘をつき、逆に永安を奪いとろうと、成憲(せいけん)という将軍を派遣して、永安に迫ります。
それを知った羅憲は、あまりに恥を知らない呉の態度に怒ります。
「呉と蜀は一衣帯水の関係、蜀が滅びれば、呉もただではすまないにも関わらず、それを忘れ果て、混乱に乗じて寸土でも奪おうとは長年の友誼に背く、呆れ果てた恥知らずの所業だ。これでは、呉も長くは持つまい、それでどうしてむざむざと呉に降る事が出来ようか?」
こうして、羅憲は、蜀が滅亡した後の戦争を戦う事を決意します。まさに蜀臣としての意地を賭けた戦いでした。
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