いかに、関羽(かんう)や張遼(ちょうりょう)、甘寧(かんねい)が無双に強くても、たった一人では雲霞のごとき敵兵に呑まれて死んでしまいます。ゲームでは数字、あるいは、100人ワンセットの兵卒ですが、これがなければ、三国志は格好がつかない事も間違いないでしょう。
でも、そんな兵力は、どうやって調達していたのでしょうか?
この記事の目次
ゲームのように上手くはいかない、シビアな兵力集め
それがSLGならボタン一発で万単位の兵も集められますが、もちろん現実社会では、そう簡単ではありません。では、当時の群雄は、どのような方法で兵力を集めていたのでしょうか?
兵を集める方法 1 立て札で募集をかける
個人では無理ですが、一定の兵力を率いている群雄なら支配地域に「扁」(へん)と呼ばれた立て札を立てて募兵する方法がありました。これなら、多くの人々の目に触れますし、あらかじめ選抜の日時を指定しておけば、大きな手間なく人を集める事も出来ます。
一番、有名なのは黄巾賊討伐の為に漢王朝が義勇軍を募った事例で劉備(りゅうび)の人生も、その募兵の立て札を契機に変わったのです。
関連記事:【週刊文春も驚き】後漢時代のメディア事情はどうなっていた?後漢時代の立て札・扁(へん)
兵を集める方法 2 直接、スカウトしてゆく
特定の支配地域もなく、勢力も小さい場合には、群雄が自ら、人が居そうな所へ行き直接募兵する方法もあります。これは、反董卓連合軍に参加して、董卓軍の徐栄(じょえい)に大敗した曹操(そうそう)が、配下の夏侯惇(かこうとん)を連れて揚州で募兵をしたという記録が武帝記に残っています。
太祖兵少、乃與夏侯惇等詣揚州募兵
刺史陳温丹楊太守周昕與兵四千餘人
還到龍亢士卒多叛 至銍建平
復收兵得千餘人、進屯河内
これを見ると、曹操は夏侯惇と揚州まで行って募兵し刺史の陳温(ちんおん)丹陽の太守、周昕(しゅうきん)に兵4000を与えられたが、龍亢で士卒に逃げられ、さらに建平という所で再び募兵し、兵1000を得て河内に進駐したとあります。晩年こそ、数十万の兵を動員するに至った曹操ですが、この頃は、4000名の兵を維持する事も出来ず、途中で逃げられ仕方なく、再び募兵して、やっと1000名を得て何とか面目を保った様子が見てとれます。
これは、つまり初期の曹操が雇い先として、大して魅力が無く、兵士達の気持を繋ぎ止められなかった証拠でしょう。
関連記事:曹操の分身!夏侯惇(かこうとん)の生涯
関連記事:司馬朗(しばろう)とはどんな人?司馬懿でさえ頭が上がらない偉大な兄の生涯
兵を集める方法 3 敗残兵を吸収してしまう
ある程度の兵力があり、募兵の気苦労を味わいたくないなら、敵対する城市や山賊、盗賊の類を討伐して、その勢力を吸収する方法もあります。江東の小覇王、孫策(そんさく)は、袁術(えんじゅつ)の下を離れた時には数千の兵だったものが周瑜(しゅうゆ)と合流し江東を攻略するに当たり、数万にまで兵力が膨れ上がっています。
実際に、孫策が配下の陳武(ちんぶ)に劉勲(りゅうくん)の敗残兵を与えているシーンもあり孫策が、この方法を多用した事が分ります。これは、手っ取り早い方法ではありますが、中には仕方なく従っている兵士や、隙あらば独立しようと考える連中もいるでしょうから、それを指揮する大将には、強烈なリーダーシップが求められる事は言うまでもありません。
関連記事:良い事が無かった曹操に勝機が訪れる!青州兵誕生秘話
兵を集める方法 4 地元豪族の兵力を借りる
勢力はないが、後漢朝廷から何らかの高い肩書きを得ていたり、或いは、元をたどれば、三公や皇族に連なるというような人なら、地元の有力豪族にお願いして兵を借りるという方法もあります。当時の豪族は、前漢の武帝の時代の末期から経済的に没落して税が払えないので逃げ出した農民を多く領地内で囲いこみ、労働力や兵力として、奴隷のようにコキ使っていました。彼等の領地は荘園のようなもので、国の監査も入らないので、次第に、豪族は軍閥のようになっていたのです。
荊州牧の劉表(りゅうひょう)や益州牧の劉焉(りゅうえん)が、地元豪族との結びつきを強めてその兵力を活用して領地の経営を盤石にしたのはよく知られていますがこのような兵力なら、叛く可能性も薄く一から訓練する必要もなく安定して使用できるメリットがあります。
ただ、飽くまでも借りているだけなので、どこでも自由には使えず、また、豪族の機嫌を取る必要もあるので、その点で気苦労はあります。
兵を集める方法 5 強引に拉致する
方法としては最悪ですが、力にモノを言わせて拉致する方法もあります。大抵は、山賊の部類が味方が減ると城邑を襲って、その住民を無理やりに仲間にするなどの方法がありますが、李傕(りかく)・郭汜(かくし)のように、長安内部で内戦をして住民を兵士として戦わせるケースもあります。
もちろん、士気は最低で、戦う気力に乏しく隙を見れば逃げようとするので逃亡兵の見せしめ処刑は絶えず絶対絶命の窮地に追い込まれない限りは、まともな戦力にはならないでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
もちろん、募兵したからいいと言うものでもなく、雇ったその日から、大将には、最低、兵の毎日の食を保障する義務がありました。今でも、成人男性は、日に3合の米を食べると言いますが、当時は、雑穀ですし死の恐怖もあるので、もっと食べたかも知れません。
食糧の支給が滞ると兵士の士気が落ち、悪ければ軍が崩壊、、もし、敵と対峙していれば、味方が反乱を起こして、食いぶちの為に大将の首を落として、敵に降伏するかも知れません。千人、万人の頭になるのは、本当に大変なのです。
関連記事:試験に出ます!九品官人法(きゅうひんかんじんほう)の理想と弊害
関連記事:三国志時代のセキュリティはどうなっていたの?何でもかんでも機密保持じゃい!
関連記事:三国時代の船はどうなっていたの?三国志の海戦は目的別に船が用いられていた
■古代中国の暮らしぶりがよくわかる■