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甘過ぎるおかん孔明!部下に厳しく出来ない事実が発覚!

2016年9月4日


 

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孔明インタビュー

 

諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は思想としては

法家の人間であり、人の善意を当てにせず、法律を厳しく

公明正大に適用して蜀を治めようとした様子があります。

しかし、よくよく事例を確かめると、事実はそれとは違い、

かなり他人に対して大甘な人物だった事が浮き彫りになるのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



昔からの友達 李厳が嘘を言って軍を混乱させた時

劉備

 

李厳(りげん)は、元々は益州の劉璋(りゅうしょう)の配下でしたが、

劉備(りゅうび)の入蜀時に護軍として綿竹関の守りを

任されていたものを、あっさり降伏して劉備に寝返ります。

その後は、諸葛亮法正(ほうせい)劉巴(りゅうは)、

伊籍(いせき)と共に蜀の法律の作成に当たります。

つまり、孔明にとって李厳は同僚だったのです。

 

孔明

 

西暦231年、孔明四度目の北伐では、李厳は前線に補給を届ける

重要な任務を受けますが、長雨で兵糧輸送が難しくなったと

孔明に告げた所、孔明は北伐を断念して戻ってきました。

 

ところが自分のせいで北伐が失敗したと思われるのを恐れた李厳は、

偽装工作をして、責任を孔明に押しつけようとします。

 

怒る孔明、弾劾書で李厳をボロクソに貶す

孔明

 

しかし、そんな嘘がバレない筈がありません。

事態を察知した孔明は、李厳から来た手紙を全て

成都の劉禅(りゅうぜん)に送り李厳が罪を逃れる為に嘘をついて

自分を陥れようとしたと弾劾します。

その弾劾書は、孔明の怒りが爆発している激しい内容です。

 

※李厳は、これ以前に禕(いみな)を厳から平にしていますが、

ややこしいので、はじさんでは李厳で通します。

 

「先帝(劉備の事)が崩御してからというもの、、李厳は、

ひたすら自分の財産を蓄えるばかりで国を憂う様子がありませんでした。

私は北伐して漢中の留守を李厳に預けようと思いましたが、

李厳は、あれこれ出来ない理屈を並べて、これを拒否し、

赴くつもりもないのに、五郡を以て巴州刺史になりたいと言いました。

また、ある年には、私が西征をしようと、李厳に漢中を任せようとすると

司馬懿(しばい)は、開府して各地から人材を集めているようです」

等と李厳は言い、私に対して自分にも幕府を開かせて欲しいと

匂わせるようなモノ言いをしました。

 

そこで私は、李厳は私が征西に向かったら、あれこれと不満を言い、

最後には、幕府を開くのを認めさせようと企んでいるのだと思い

李厳の息子の李豊に江州を任せる事でその野心を満足させました。

 

そうして、李厳が漢中に赴任すると、その権限の一切を任せて

口を挟みませんでした。

部下の中には、私が李厳を重く扱うのを不満に思う者もおりました。

しかし、私としましては、漢室が天下を平定していない今は、

李厳の欠点を言い募るより、その長所に焦点を当てて使うより他に

方法はないと思い、こうして優遇して参りました。

 

ところが、私がここまで苦心しても李厳の心には出世欲しか

無かったのであり、手厚く遇すれば遇するだけ、李厳は思い上がり

遂には公私を転倒するまでに至りました。

 

これを見抜けなかったのは私の不徳であります。

ですので、もうこれ以上、李厳を使う事は出来ないと思い、

このように郡臣一同とも協議した上、李厳の位官と爵位を剥奪し

庶民に落とす事を願いますが、言えば言うだけ、私の馬鹿さ加減が

現れるようで情けなく感じておる次第です」

 

よくよく読むと、大甘な孔明の弾劾書

孔明

 

このように弾劾書には、孔明が色々とダダをこねて、

出世欲を満足させようとする李厳をなだめすかし、

便宜を図っておだてて仕事をさせようと考えたのが

全て裏目に出て第四次北伐の失敗を招いたという事が赤裸々に書かれています。

 

辛辣に李厳を批判しているのはもちろんですが、

それ以上に孔明の本心、、

 

「私が心を尽くせば、いつか李厳も分ってくれるのでは?」

 

という法家らしくない、人の善意に期待する部分が現れています。

そして、国家の命運を左右するような戦争を失敗に導いた

李厳に対する罪が庶民に降格というのも処罰が甘いでしょう。

 

孟達 司馬懿

 

司馬懿なら、すぐにではなくても時期を見て

確実に処刑にしてくる程の大失敗の筈です。

 

こうして見ると、この弾劾書は言葉だけは厳しいですが、

極めて大甘な内容なのです。

 

甘ちゃん孔明変わらず!李豊に与えた手紙にびっくり

孔明

 

まあ、いずれにしても、弾劾書により李厳を前線から除いたのは、

高い授業料を支払ったにしても孔明には、

 

「あまりに人を信じると、相手は、

つけあがる事もあるから注意しよう」

 

という意味では、いい薬になったという所でしょう。

 

ですが、孔明の大甘な態度は、まだ終わっていませんでした。

それは、李厳の息子である李豊へ宛てた手紙からも分ります。

 

「私は君達親子と共に漢の天下を回復する為に頑張ってきた。

これは天下の人ばかりでなく神も知る所である。

そもそも、君の父に漢中を任せ君に江州を任せたのは私の独断だ。

私は、それほどまでに君達親子を評価しているのだよ。

 

それを心から感動して職務に励んでくれるかと思えば、

君の父は、このような不義理な事をしてくれて本当に悲しい事だ。

昔、楚の卿(大臣)は、しばしば退けられたが度々返り咲いた。

今は、不義理をして落とされても、心を入れ替えて道理を追求するなら

再び、道は開け良い事もあるというのが天の教えというものだ。

 

君からも、父には気を落とさずに過去の罪をよく反省して、

正道に帰る事をよくよく諭してもらいたい。

なーに、君の父は身分こそ庶民に落ちたとはいえ、

召使いや賓客は100名以上もいるし、なにより息子である君は

中郎参軍として丞相府に勤め、まだまだ李家は階級としては

士大夫でも上のランクではないか・・

 

君の父が、過ちを深く反省して謹慎し、

また君が、蔣琬と力を合わせて職務に励むなら父の復活も夢ではないぞ。

よいか、君は私の言葉をよく噛みしめて、心得違いをしないように

ああ、何だか泣けてきて、文字がよく見えないよ」

孔明激白!李厳 NEVER GIVE UP!

孔明 出師

 

この手紙を読んだ方には、唖然とする人もいるかも知れません。

北伐をしくじらせて、自分を陥れようとした李厳に対して、

息子経由とはいえ、「李厳、ネバーギブアップ!!」と呼びかけているのです。

 

それにしても孔明は出師の表の結びでも、思いが溢れて言葉にできない

等と書いていますが、ここでも泣けてきて文字がよく見えない

なんて書いているので、元々、感激屋の所があるかも知れません。

 

でも、敗者復活が駄目とは言いませんが、こんな簡単に、

「深く反省したら、復活もあり得る」なんて書いちゃダメじゃないでしょうか・・

では、何のために李厳を庶民に落としてしまったのか分らなくなります。

実際に、息子経由で孔明の言葉を聞いた李厳は感激し、自分が再登用される時を

心待ちにしていましたが、五丈原で孔明が急死して復活の夢が潰えると、

間も無く病を発して死んでいます。

 

うーん、孔明って、実際には、めっちゃくちゃ

部下に甘い人なんじゃないでしょうか?

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

孔明には、馬謖(ばしょく)も斬らずに庶民に落とすつもりが

馬謖が牢獄から脱走を図ったので斬罪に処すより無くなったという疑惑もあります。

 

 

 

この呆れるほどの大甘さについては、やはり孔明が父を知らずに

育ったという事と無縁ではないかもしれません。

父を早くに失い、母親や叔父の諸葛玄(しょかつげん)の庇護の下にいた孔明は、

人に厳しく接するという事が苦手で、どうしても甘さが先に出てしまう

母性が強い人だったという所でしょう。

 

従来言われるような、人を見る目が甘いというよりは、

欠点を知りながらつい長所ばかりを見てしまうという、

一種の人の良さが孔明にはあったのかも知れません。

 

本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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