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シミルボンをご覧の皆様
私は、はじめての三国志というポータルサイトからやってきました
kawauso @ はじめての三国志と申します。
通常は三国志や漫画キングダム関連の記事、さらに時代を広げて、
日本史や古代ローマやカルタゴなどの地中海方面の歴史へも
踏み込んだり、やっぱり踏み込まなかったりしています。
ですので、ここでは、私共にとってのオリジナル部分で
日々更新している三国志の歴史について、お話しようと思います。
この記事の目次
三国志とは、どんな話なのかをザックリ説明・・
ちなみに、一般で言う三国志の内容をザックリ説明しますと・・
2世紀末の中国大陸、漢王朝は400年の長期政権で腐敗に塗れていました。
やがて、農民反乱が頻発するようになった頃、劉備(りゅうび)という貧乏だけど
漢王室の血を受け継ぐ男が、世を建て直し漢王室を復興させようと誓い、
天性のカリスマ性で関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)、趙雲(ちょううん)
後には諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)という有能な家臣を得て、
漢王朝を背後で操り、圧倒的な勢力で天下を我が物にしようと企む、
曹操(そうそう)という悪の親玉をやっつけようとジタバタと頑張ります。
お話の途中で、呉の孫権(そんけん)という男が話に参加、
劉備と孫権は同盟を組んで天下統一寸前の曹操を一度は赤壁の戦いで撃破、
やがて、それぞれ魏(曹操)・呉・蜀(劉備)という
三国を建国しますが、劉備と曹操は寿命で死去します。
こうして戦いは、劉備の家臣の諸葛亮と曹操の息子の曹丕(そうひ)の重臣の
司馬懿(しばい)との間で繰り広げられますが、最期には諸葛亮が寿命で死去し、
力を蓄えた司馬懿は勢力を伸ばし、孫の時代に魏も呉も蜀も滅ぼし
統一王朝の晋を建国しました。
ザックリ説明すると、こんな感じです。
元祖三国志は陳寿によって書かれた!
さて、最初の三国志は、晋の時代の官僚、陳寿(ちんじゅ:233~297)に
よって執筆されます。
その頃は、ちょうど三国時代が終わり、晋(しん)という統一王朝が出来た頃でした。
誤解されていますが、陳寿の書いた三国志は、皇帝から命じられた事業ではなく
陳寿個人の筆によるもので、魏(ぎ)志、呉(ご)志、蜀(しょく)志と
三国を独立して書いているのが特徴で、故に三国志と呼ばれます。
また、晋が三国の魏を母体として成立している都合から、
魏志の分量が一番多く、また魏を正統として歴代君主を皇帝と記す反面で
蜀や呉の君主達は、先主・後主、呉主等と表現し帝(みかど)という字を避けています。
陳寿の三国志は、信憑性に難がある記事を全て切り捨て、正確性を重視し、
その時代に高く評価されましたが、その分、さっぱりとしてしまい、
面白味や広がりに欠ける内容になってしまいます。
三国志の名編集者、裴松之が登場し、元祖三国志を補完する
可能な限り公正、正確な記述を心がけて高い評価を受けながらも、
伝聞や俗説が持つ、猥雑な面白味を削ってしまった三国志は、次に、
東晋末・宋初期の官僚、裴松之(はいしょうし:372~451)によって
補完される事になります。
宋の文帝(407~453)は陳寿の三国志の愛読者でありながらも、
その素っ気ない書き方に不満を持っていました。
文帝は裴松之に命じて、さっぱりしている三国志の情報を補えと命じます。
裴松之は名編集長ぶりを発揮して、史料を集め、陳寿が信憑性に乏しい
として削除した記事を「信憑性は乏しいよ」と前置きした上で大量に拾って、
補完したのです。
これにより、裴松之の補完した三国志は陳寿三国志の二倍の分量になりました。
信憑性のある記事から荒唐無稽記事まで、どんどん三国志の中にぶち込んだので
さっぱりした三国志は、史料矛盾まで発生する雑多な面白い読み物に変化します。
おまけに裴松之は、その史料をどこから拾ったのか出典元まで明記したので
三国志の研究者は元史料を探すのがすこぶる楽になりました。
三国志好き放題、二次創作時代
三国志は、こうして知識人階層の読み物となり、唐代に寺などの公共スペースで
見世物小屋などが発達すると、三国志の名シーンを演ずる演劇や講談が登場します。
それにより識字率が低い平民層にも三国志は馴染みになっていきます。
宋の時代に入り、印刷術が発展普及すると本の値が下がり学術書ばかりでなく、
趣味や娯楽、園芸など多様な書物が印刷され、その中に三国志も出てきます。
すでに、この時代から、劉備=善玉、曹操=悪玉という基本構造は出来ていました。
そして、元の時代になると、後の三国志演義の母体になる、
新刊全相平話三國志が全三巻の本になり出版されます。
これは通称、三国志平話といい、元々の三国志の話に伝承や脚色、
当時の世相などを加えて、オリジナルとは大幅に違う話にした、
いわば三国志の二次創作本にあたります。
荒唐無稽な三国志平話のあらすじ
三国志平話は、最初に裁判の話からスタートします。
後漢の光武帝(こうぶてい)の時代の書生だった司馬仲相(しば・ちゅうそう)は
ある日、天帝の命で召喚され地獄での裁判を行う事になります。
その裁判は前漢の初期から、250年の長期決着していない物で、
原告は、韓信(かんしん)、彭越(ほうえつ)、黥布(げいふ)の漢の功臣の3名、
被告は前漢の建国者劉邦(りゅうほう)、そして妻の呂后(りょこう)の2名でした。
原告3名は、漢の功臣である自分達を劉邦と呂后が謀殺したと訴え、
劉邦と呂后は、冤罪だと主張して譲りませんでしたが、司馬仲相は、
証言者として韓信とも劉邦とも面識がある策士の蒯徹(かいつう)を呼び出し、
劉邦と呂后の嘘を暴いて、見事に裁判を結審させます。
天帝は、劉邦と呂后に償いをさせるとし後漢最後の皇帝献帝(けんてい)に劉邦を
その妃の伏(ふく)皇后に呂后を転生させます。
そして、原告の3名を韓信は曹操、彭越は劉備、黥布を孫権に転生させ、
前世でしてやられた報復をさせるのです。
そして、証言者として活躍した蒯徹は諸葛亮孔明、裁判を結審させた
司馬仲相は司馬懿仲達(ちゅうたつ)として、次の晋王朝の建国の祖にします。
この三国志平話でも、話は司馬懿の孫の司馬炎(しばえん)による三国統一が
出てきますが、劉備びいきが行き過ぎて、劉備の血を引くとされる
五胡十六国時代の漢(前趙)の建国者、劉淵(りゅうえん)に晋を滅ぼさせて
劉備の仇討ちをさせるという歴史を捻じ曲げたラストになっています。
劉淵は史実でも登場しますし、当初は漢という王朝を建国し、
やがて、前趙(ぜんちょう)と国号を改めて晋を滅ぼしますが
劉備とは縁もゆかりもない他人です。
このように三国志平話は最初から大幅な変更が加えられ、
物語は主人公格の劉備、張飛、関羽の三兄弟を中心に進んでいき、
元々の三国志の名を借りた二次創作作品となったのです。
かつて三国志は今とは似てもにつかない荒唐無稽な話だった
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※本稿はシミルボンに掲載された記事をはじめての三国志用に再編集したものです