三国志の世界には忠義心厚い武将達が登場します。蜀には劉備に長年仕えていた関羽(かんう)や趙雲(ちょううん)らの武将が代表的な人物です。また呉においては孫家三代に仕えた程普(ていふ)や黄蓋(こうがい)などがいます。もちろん魏にも曹操創業期から必死に支えてきた夏侯惇(かこうとん)や曹仁(そうじん)などの武将がいます。しかし上記は全て武官であり、文官で歴代の君主に仕えて長生きした人はあまりいないのではないのでしょうか。今回は魏の三代の君主に仕えて、三代の君主全て褒められたマイナー武将の徐宣(じょせん)を紹介しましょう。
この記事の目次
徐宣は名太守陳登に仕える
徐宣(じょせん)は徐州・広陵(こうりょう)出身の人です。彼は中原が戦乱に包まれるといち早く戦乱に包まれていない地域である江東へ避難。しかしこの地は袁術(えんじゅつ)から独立した孫策(そんさく)が江東平定の戦を起こしたため、戦乱に包まれてしまいます。その後江東平定を完了した孫策から「私に仕えないか」と誘われることになりますが、孫策をあんまり好きでなかった彼は、誘いを断って広陵へ帰ります。その後この地を治めていた名太守・陳登(ちんとう)へ誘われたことがきっかけで仕えることになります。徐宣は陳登の元で広陵郡全体の事務官として働き始めます。同僚であった陳橋(ちんきょう)とは仲がうまくいきませんでしたが、共に事務処理能力が秀でていたことから広陵郡一帯で有名になります。
曹操に仕える
徐宣は陳登が病にかかって亡くなると、陳橋と共に曹操に見出されて仕えることになります。彼は斉郡太守として地方の統治官として任命されるとこの地で持ち前の事務能力を発揮して、民衆達と上手くやりながらしっかりと民政を行って統治します。その後曹操に呼ばれて中央に戻ることになり、国政に関与することになります。
曹操から高い評価を得ていたことから揚州の諸軍を統率することに
曹操は赤壁の戦いの後、寿春(じゅしゅん)水軍と陸軍の大軍を率いて駐屯します。そのままこの地で訓練に励んでおりましたが、涼州で馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)が連合して、反乱を起こしたとの報告が入ります。曹操は西の反乱を鎮めるために向かわなければならなくなりましたが、この地が孫権に狙われる可能性が高いことから、信頼できる人物に守備を任せなくてはならなくなります。そこで彼は以前から「徳の高い」人物として評価していた徐宣を招いて
「君には大きな徳と公平さを持って人と接している。
そこで君この地の諸軍を統率して孫権が攻めてきた時の守備をお願いする。」と命じ中護軍に昇進。合肥に駐屯している張遼(ちょうりょう)・楽進(がくしん)・李典(りてん)の三人を統率させて、孫権軍に備えさせます。
曹操の死によって大混乱を来す
曹操が亡くなると家臣達は大混乱を起こします。この大混乱の時にある部下が「辺境の城を守備している人物が願える可能性があるから、曹公と同じ出身の者に城を守備させたほうがいいのではないのか。」と意味不明な事を会議で発言します。この発言を聞いていた徐宣は「曹公と同じ出身の者を城の守備にしてしまえば、忠誠を誓ってきた者に対して無礼である。また魏に忠誠を持って仕えていた他国の出身者達は魏に愛想を尽かしてしまうであろう」と声を大にして反対します。
この反対意見を聞いていた曹丕(そうひ)は大いに彼を褒めて「君こそ今後の魏を支えていく人物である」と高い評価を下します。こうして二代目君主・曹丕からも信頼を得ることになります。
曹丕に高く評価され次々と官職が上がる
曹丕(そうひ)は徐宣(じょせん)を高く評価しておりました。彼が皇帝となった時徐宣を役人を監視する役職である御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の位を与え、この官職をさずけた一ヶ月後には一番低い爵位であるが侯の位をさずけます。この侯の位を授けるのと同時に違う官職を与えられることになります。こうして曹丕から厚い信頼を得ることになり、官職がコロコロと変わっていくので忙しい毎日を過ごすことになります。
曹丕の危機にいち早く駆けつける
曹丕は呉の孫権が一度は魏に対して臣従する形を見せたにも関わらず、その後魏の朝廷の言うことを全く聞かなくなった事に対して激怒。その為、三道から呉へ攻撃を仕掛けて討伐戦を開始します。この戦いには曹丕自ら出陣することになりますが、徐宣もこの戦に加わりますが、体調を崩してしまい後方で仕事を行うことになります。
その後魏の戦況はおもわしくなく、曹丕が乗っていた船が突然の突風により横転しそうになります。この情報を手にれた徐宣は急いで着替えて船に乗って曹丕の元へ誰よりも早く駆けつけます。曹丕は彼の行動の早さと君主が危機的な状況に陥った際誰よりも早く行動することができる忠誠心を大いに褒めた後帰還。この戦の後に曹丕は急病によって亡くなってしまいます。
家臣から認められ、推挙を受ける
曹丕が亡くなると魏の二代目皇帝には曹丕の長男である曹叡(そうえい)が跡を継ぎます。彼は皇帝に即位した時にまず諸将の位を昇進。この官職と爵位を昇進させた家臣の中に徐宣もおりました。彼は曹叡によって侯の位を一個上に昇進することになると同時に左僕射(さぼくや)へ官職も昇進することになります。左僕射の仕事は尚書台と言われる魏の国政を行う行政機関の補佐をする官職です。この地位に彼を推挙したのは桓範(かんはん)の推挙によるものです。
彼は後年曹爽(そうそう)の軍師的役割を果たすことになる人物です。そんな彼は曹叡に「徐宣は各地の都市の諸郡を監督しており行政能力においてはかなり秀でていることでしょう。また曹操様や曹丕様からも国家を任せるにたる徳の大きい人物であると高い評価をされていることから彼を左僕射に任命して、国家の行政機関の一部を任せてみてはいかがでしょうか。」と推挙。この桓範の進言を採用したことによって徐宣は左僕射となるのです。
曹叡からも絶大な信頼感を持って接する
曹叡は仕事で許昌(きょしょう)へ向かわなくてはならなくなった際、徐宣に「留守の間事務仕事をお主に任せる」といって向かいます。その後洛陽(らくよう)へ帰還すると曹叡の元に、役人が徐宣が行った事務の仕事を確認してもらうために書類を持ってきます。曹叡はこの書類が置かれた時に「この仕事は全て徐宣がやったのであろう」と役人へ問います。役人は頷くと曹叡は「ならば朕がこの書類の束を見る必要がない」といって突き返してしまいます。曹叡がどの程度徐宣を信頼していたのかが分かるエピソードだと思います。
徐宣が亡くなると・・・
徐宣はその後も第一線で活躍しておりましたが、70歳を超えて亡くなります。彼は遺言で簡素な葬儀を行えばいいと残しておりました。しかし曹叡は彼が亡くなると大いに悲しむと共に家臣達へ「彼は公平さと無私の心で官に仕えてくれた。また国家の運命を託すことができる数少ない臣下であると共に、忠誠心に溢れた臣下であった。」と最大限に褒めたたえた後、彼を三公の格式を持って葬儀を行うとともに車騎将軍(しゃきしょうぐん)の位を追贈されますが、彼の遺言は全く無視される格好になります。
三国志ライター黒田廉の独り言
魏三代に仕えた家臣はそんなに多くはありません。代表的な人物であると司馬仲達がその一人に挙げられるでしょう。しかし彼は忠義の仮面をかぶっていただけで四代目の君主に仕えたときクーデターを起こして、魏の政権をほとんど私有化してしまいます。それに比べて徐宣はなくなるまで徹頭徹尾忠誠心を持って曹氏三代に仕えて、歴代の君主も彼の忠誠心を高く評価していきます。まさに忠誠心の塊のようなマイナー武将・徐宣をご紹介しました。
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