「将来を見通す才」において郭嘉(かくか)と互角の勝負ができる男が西にいます。
姓を賈、名を詡、字を文和といいました。
僻地とも呼ぶべき涼州武威郡の生まれです。
西方の涼州は、チベット系の異民族である「氐族」や「羌族」の侵入が相次ぎ、
住民は恐怖と混乱のなかにいました。
賈詡(かく)はそんななかで都に上り、官位につくのです。
西暦174年(熹平三年)霊帝とその取り巻きの十常侍はある決断をします。
涼州の生まれで、当時一番の出世頭であった
太尉・段熲を異民族討伐に向かわせるというものです。
段熲は実際に西暦159年に羌族を撃破していましたし、
積極的に融和策をとって治安を回復し幷州刺史にもなりました。
段熲には実績があったのです。
段熲は安西将軍に任じられると故郷へ出陣していきます。
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董卓の配下になる
賈詡を、同じく涼州の怪物・董卓(とうたく)の生え抜きの臣だと勘違いしている方がいます。
ゲームで三国志をすると、スタートでは董卓は涼州にいて、
その有能なる臣のひとりに賈詡がいるというケースがよく見られます。
しかし、実際には董卓と賈詡のつながりはそこまで深いものではありません。
董卓に乞われてその旗下に加わったのは西暦189年(中平六年)のことになります。
霊帝が崩御し、大将軍の何進(かしん)が暗殺され、
怒り狂った何進の部下たちが宦官を皆殺しにします。
その混乱に乗じて董卓が洛陽に入り、少帝の身柄を押さえて権力を握るのです。
賈詡が董卓に呼ばれたのはこのときです。
賈詡は董卓の娘婿である牛輔の下で校尉となりました。
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柔軟に主を変える賈詡
当初は段熲の下を頼る予定だった賈詡ですが、権力闘争の末に段熲は暗殺されていました。
賈詡は仕方なく洛陽の朝廷に戻って太尉府の属官に甘んじていました。
それが侵攻してきた董卓に乞われて校尉となります。
董卓亡きあとは李傕(りかく)に乞われて助言をするようになり、尚書となります。
賈詡の献策のお陰で長安を奪還できた李傕(りかく)は、
賈詡に望む官位と爵位を与えようとしましたが、
先を見据えた賈詡は李傕と深くつながることをおそれました。
献帝の長安脱出劇に一役買った後は、
華陰の段煨を頼り、さらに南陽の張繍(ちょうしゅう)に参謀として迎えられます。
そして南陽に侵攻してくる曹操の猛攻を体験するのです。
賈詡はすぐに張繍に降伏を進言し、そのことば通りに全面降伏となります。
ですが、その後の曹操の無礼さに張繍が憤り反乱を起こすことになるのです。
ここでも賈詡の計略は見事に当たり、
曹操の嫡男や甥、身辺警護の典韋(てんい)などを討ち取っています。
河北の雄である袁紹がそんな張繍の活躍ぶりを見て、
涼州の刺史に任じるので陣営に加わってほしいとの催促をしてきました。
張繍が喜んで承諾しようとするのを賈詡は止めます。
そしてあろうことか一度裏切って反乱している相手の曹操に味方するよう進言するのです。
賈詡に全幅の信頼を寄せていた張繍は曹操軍に加わることとなり、賈詡もまた曹操の臣となるのです。
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三公まで出世した賈詡
軍師や参謀の多い曹操の陣営において賈詡が活躍するような場面はなかなかやってきません。
西暦211年(建安十六年)の馬超征伐のときくらいでしょうか。
賈詡の曹操へのアドバイスのひとつで有名なものが残っています。
曹操は曹丕と曹植のどちらに跡を継がせるかで悩んでいましたが、
袁紹・劉表の悪例を用いて長子相続を進言したのです。
曹操はその通りだと頷きました。
賈詡が三公のひとつである太尉になれたのは、そんなやりとりを曹丕(そうひ)が聞いていたからです。
曹操が亡くなり、曹丕が魏王となって後に賈詡は太尉となったわけです。曹丕なりのお礼ですね。
決して名家の出とはいえない賈詡。人脈もそれほどあったわけではありません。
その局面、局面でした先を見据えた的確なアドバイスが功を奏して、賈詡は出世していくのです。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
賈詡の将来を見通す力はここまでではありません。五十年先まで布石を打っています。
曹家や夏侯家という名家からの縁談の話をことごとく断るのです。
魏の国の中心とも呼ぶべき両家との縁談を拒否する賈詡に、当時の人たちは首をかしげていましたが、
賈詡の死後五十年後にその理由がわかります。
「軍師連盟」の主役である司馬懿(しばい)の孫、
司馬炎(しばえん)が魏に代わり晋を立てて天下を統一するのです。
このとき、曹家とも夏侯家ともつながりの薄い賈詡の一族はみな取り立てられて栄華を極めました。
賈詡の目はどこまでも先を見ていたのです。
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