図解でよくわかる夷陵の戦いと趙雲の重要性

2017年1月4日


 

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劉備 黒歴史

 

三国志を読んでいると、特に合戦のシーンでイメージが掴みにくい事があります。それは、基本的に文字だけでは、戦場の地形を思い浮かべるのが難しいからです。

 

 

特に、複雑な経緯を辿る戦いだと、始まりと結果しか分らないという事が起こりがちそこで、今回は劉備(りゅうび)最後の戦争、夷陵の戦いについて図で解説します。

 

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西暦221年、七月、劉備は呉討伐の軍を起こす。

夷陵の戦い1

 

西暦221年の七月、劉備は延び延びになっていた、義弟、関羽(かんう)の仇討の為に呉討伐の軍勢を起こします。

 

蜀の兵力は三国志演義では75万ですが、宋の時代に編纂された資治通鑑(しじつがん)では4万人とあります。また、それを迎え撃つ呉は5万の兵力であるとされています。

 

スターティングメンバーは、呉班(ごはん)、馮習(ふうしゅう)張南(ちょうなん)、傅肜(ふとう)、輔匡(ほきょう)、趙融(ちょうゆう)廖化(りょうか)、向寵(しょうちょう)、陳到(ちんとう)、陳式(ちんしき)李朝(りちょう)、程畿(ていき)、馬良(ばりょう)、王甫(おうほ)、黄権(こうけん)、龐林(ほうりん)、杜路(とろ)、劉寧(りゅうねい)趙雲(ちょううん)、馬忠(ばちゅう)という大掛かりなものです。

 

馮習が総司令官、劉備が総大将となります。兵を集めた劉備は、江州に趙雲を残し、永安に向かい出発します。その先には、巫(ふ)城と秭帰(しき)城があり李異(りい)と劉阿(りゅうあ)、陸議(りくぎ)が守備していました。

 

 

 

劉備、呉班と馮習を派遣して、巫城と秭帰城を陥落!

夷陵の戦い2

 

 

劉備は、呉班と馮習を派遣して、李異と劉阿が守る巫城と秭帰城を陥落させます。李異と劉阿は退却、まさに神速のスピードでした。

 

 

夷陵の戦い3

 

劉備は、秭帰城に進軍し、そこから漢江を通り、呉班と陳式を船で移動させ夷陵(いりょう)を抑えにかかります。さらに劉備は陸路を取って兵を勧め、呉班と陳式を囮に陸遜(りくそん)を誘いこもうと画策しますが、陸遜は陽動作戦を見破り誘乗りませんでした。

 

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蜀軍、夷道の孫桓を包囲して猛攻撃するが陸遜は援軍を出さず

夷陵の戦い4

 

蜀軍は夷陵を制圧し、次々と駐屯地を造りあげます。そして、全軍を挙げて夷道の孫桓(そんかん)を包囲して攻撃しました。孫桓は堪らず陸遜に援軍を要請しますが、孫桓が持ちこたえられると読んだ陸遜は援軍を送りませんでした。

 

 

陸遜を軽く見ていた、韓当(かんとう)徐盛(じょせい)や宋謙(そうけん)という猛将はこれで呉もオシマイだと落胆したと言われます。さらに劉備は、馬良を武陵蛮に派遣して沙摩柯(しゃまか)を扇動して、呉の後方を攪乱する計略も実施します。

 

 

 

劉備は黄権の反対を押し切り、夷陵まで出陣する

 

西暦222年、気候が温暖になるのを待ち、劉備は駐屯していた秭帰城から出陣し夷陵まで進むと言いだします。

 

 

夷陵の戦い5

 

黄権は劉備の行動に難色を示します。

 

「夷陵まで進むと、撤退が困難であるのでそれは私達に任せ陛下は後方に居て下さい」

 

しかし、劉備は聞かず黄権を長江の北岸に配置して、自身も夷陵に駐屯しました。

 

 

西暦222年6月、陸遜、火計で蜀軍を焼き払う

 

西暦222年6月、前線が延び切り、疲れが見えた蜀軍の陣地に、陸遜(りくそん)は攻撃を仕掛け失敗します。ですが、そこで、陸遜は蜀軍の陣地が近づきすぎており、火計を仕掛ければ陣地を焼き払えると判断、夜中に河を遡り、蜀軍の40以上の陣地に火を射かけるとまたたく間に燃え上がりました。

 

 

夷陵の戦い6

 

劉備は後方で、火の手があがると、混乱を収拾しようと撤退を開始、馬鞍山まで退いて陣を構築しますが、怒涛の呉軍の攻撃で再び大敗します。この敗戦が致命傷になり、蜀軍は再起不能になり大混乱に陥りました。

 

蜀軍の包囲を解いた孫桓は、城を撃って出て、逃げまどう蜀軍の退路を断ちながら狙い撃ち、その結果、総司令官、馮習を始め、張南、傅肜、程畿、馬良、武陵蛮で蜂起した沙摩柯が戦死、さらに、劉備に深追いを戒めていた黄権は退却が間に合わず魏に降伏して捕虜になり、龐林、杜路、劉寧という面々も同様の運命を辿る事になります。

 

 

執拗に迫る呉軍、劉備は狭い桟道をくぐって逃げていく

 

劉備は、呉の追手をかわしながら、益州に向かい、落ちていきます。

 

夷陵の戦い7

 

 

呉軍の追求は緩まず、劉備の首を獲らんと、大挙して追いかけてきます。劉備は信陵(しんりょう)、秭帰城、巫(ふ)城と通過し最後には、白帝城に逃げ込んでこの地を永安と改名しました。

 

 

夷陵の戦い8

 

 

絶対絶命の窮地を救ったのは、劉備の出兵に反対して江州で留守番をしていた趙雲でした、敗戦を知った彼は独断で兵を動かし永安に到着追いすがる呉軍を威嚇して劉備を守ったのです。

 

 

劉備

ですが、蜀軍は壊滅状態で捕虜も戦死者も数万という大損害を受け、劉備も虚しく人生の幕を下ろす事になります。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

地図で見てみると、蜀から、外へ出る為には、漢中から秦嶺山脈を北に長安に向かい抜ける方法と、永安から水路を通り、江陵に抜ける二つのルートがある事が分ります。

 

しかも、永安ルートは水路なので、秦嶺ルートよりは、ずっと楽に先に進む事が出来るのです。後に蔣琬(しょうえん)は、漢中ルートではなくこの永安ルートから魏を攻めようと計画した事があります。ですが、退却が難しいと反対された事と健康状態の悪化で実現しませんでした。

 

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夷陵の戦い

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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