輝ける四世三公の名門に生まれ、反董卓連合軍結成の頃は、
従兄弟の袁紹(えんしょう)と共に、天下を二分するような勢力を
保有していたスーパーエリート袁術。
しかし、そんな袁術は、西暦199年の真夏、「はちみつ水飲みたい」という
不朽の名言を残して、壮烈な人生の幕を閉じます。
その華麗なる転落のプレリュードこそが匡亭(きょてい)の戦いでした。
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この記事の目次
従兄弟、袁紹と天下を争った匡亭の戦い
董卓(とうたく)が呂布(りょふ)に殺され、あっけない最期を遂げ、
その呂布が、董卓の残党、李傕(りかく)、郭汜(かくし)に長安を追い落とされた
西暦192年、天下は、公孫瓚(こうそんさん)&陶謙(とうけん)&袁術連合軍と、
袁紹&劉表(りゅうひょう)&曹操(そうそう)連合軍に二分されます。
当時の公孫瓚は、幽州、冀州、青州、并(へい)州を持つ有力諸侯でした。
その公孫瓚と同盟を結んだ袁術は、これまた肥沃な南陽郡の100万の
人口に胡坐をかいた有力な勢力だったのです。
手足として働いてくれた名将、孫堅(そんけん)が劉表との抗争の最中に
戦死してしまっているという、戦争下手の袁術にとっては、
ちょっぴり不安要素はあるものの、ここで憎っくき袁紹&曹操勢力を
撃破すれば、天下は袁術の元にぐっと近づくというものでした。
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袁術の美学1 兵站はテキトー位でよい!
西暦193年、正月、袁術は大軍を起こして、南陽郡を出発します。
そういえば、皇帝即位も正月でした、袁術は正月が好きなのかも知れません。
標的に定めたのは、もちろん、憎っくき袁紹、、ではなく、
その使い走りのような曹操でした。
ようやく、兗州(えんしゅう)を得たばかりという曹操は、
袁術には倒しやすい格好の獲物に見えていたのです。
「まっはっは!ようやく兗州を抑えた曹操では、
とても我が精鋭の矛先をかわす事は出来まい、
この戦はワシがもらったわい」
袁術の段取りは万全でした、公孫瓚には袁紹を攻めさせ、さらに、
兗州の背後にいる黒山賊(こくざんぞく)にも使いを出して、
戦争への協力を取り付けていたのです。
しかし、南陽を出発して、しばらくすると早くも大ピンチが起きます。
袁紹と結んでいる、劉表が兵を出して袁術の補給線を切断してしまったのです。
これは、痛恨のミス、この状態で敗北しようものなら、
もはや、南陽郡に戻ってくる事は出来ません。
ですが、袁術は、少しも動じようとはしませんでした。
「ふん、補給線がなんじゃい、物資は兗州で手に入れるもんねー」
でました袁術、掟破りの兵站軽視です、これぞスーパーエリート、
食糧の事は下々の部下が考える事と動じないのです。
だから、最期は飢えと渇きで死んじゃうんですけどね・・
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袁術の美学2 兵を分けて曹操を囮(おとり)に咬みつかせる
帰還できない戦争を進める袁術は、無事に兗州のエリアに入ると、
まず、封丘(ふうきゅう)に布陣して、そこから劉詳(りゅうしょう)という
将軍を匡亭に配置します。
「曹操は、まず要衝の匡亭の劉詳を撃破しようと兵を進めるに違いない、、
こうして、曹操と劉詳が戦い、曹操の軍勢が疲労した所で、わしの本隊が、
匡亭に入り、弱った曹操を叩き潰す、、完璧じゃ、まっはっは!!」
曹操は、袁術の目論見通りに、匡亭の劉詳軍に襲い掛かります。
袁術は、作戦が当たって狂気乱舞し、さっそく弱った曹操の側面を突こうと
封丘から匡亭に向かって進撃します。
袁術の美学3 青州兵が曹操についた事はご存じない!
袁術の戦術は、半年前までなら、充分に有効でした。
しかし、この半年で曹操は、三国志最強の青州黄巾賊30万を、
自軍に編成してしまっていたのです。
劉詳との戦いに兵を割きながら、曹操は、最強の青州兵を率いて
封丘から進軍してくる袁術の大軍に襲い掛かります。
それが強いのなんの、楽勝だと高をくくっていた袁術軍は、
舜殺されてしまい、袁術は、さっきまでの勢いも消し飛んで、
すぐに、封丘に退却してしまいます。
「逃がすか!袁術、てめえに引導を渡してやるぜ!」
曹操軍は、封丘を包囲して兵糧攻めに入りますが、
逃げる事には定評がある袁術は包囲が終わる前に、
夜中に紛れて城を抜けだし封丘はもぬけの空でした。
曹操は、袁術を追い、襄邑(じょうゆう)に向かいますが、
袁術は、さらに襄邑から太寿(たいじゅ)に逃げ延びてここで籠城します。
曹操は、今度は、堤防を決壊させて太寿を水攻めにします。
それに驚いた袁術は、さらに寧陵(ねいりょう)まで逃げていきます。
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袁術の美学4 曹操はしつこい!
寧陵は、すでに兗州のエリアを抜けて、豫州(よしゅう)でした。
さすがに、これで曹操は追ってこないだろうと一安心した袁術ですが、
曹操は諦めず、国境を越えて、袁術軍を追います。
「しつこいのぉ!曹操のヤツ、もうほっといてくれ!」
呆れた袁術は、さらに寧陵から睢水(いすい)の流れに乗り、
遥か南の九江(きゅうこう)郡に向かって落ち延びていきました。
さすがの曹操も、船を仕立ててまでは追撃できず、
袁術を捕まえるのを諦めてしまいます。
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袁術の美学5 色々あっても結果オーライでOK
袁術は、闇雲に九江に逃げたのではありません。
ここには、かつて袁術が揚州刺史に(勝手に)任命した陳瑀(ちんう)がいたのです。
袁術は昔の恩義を使い、陳禹に自分を匿うように使者を出しました。
しかし陳瑀は、周辺の豪族が袁術に従う中で自分だけが呼応しないという
分かりやすい拒否り方をしたので、怒った袁術は謙(へりくだ)った態度をして、
陳瑀を油断させて兵を集め、陳瑀を撃破して城を乗っ取ります。
まあ、南陽は兵站軽視から劉表に取られましたが、寿春を得たので、
袁術の中では、結果オーライなのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
匡亭の戦いの失敗は、曹操、袁紹、劉表を強化させる結果を招きます。
天下のツートップだった袁術は、脱落して二流の群雄になり、
覇権は、袁紹と公孫瓚により争われ、公孫瓚が没落すると、
曹操と袁紹による天下分け目の官渡の戦いへと突き進みます。
その後も、しぶとく生き残り、呂布、劉備と虚々実々の戦いを続けた
袁術ですが、ついに匡亭の戦い以前の威信を取り戻す事は出来ず、
南の方のモブ群雄として没落の道を辿るのです。
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