袁術は実はベトナムに逃げ延びていた!?【歴史ミステリー】

2016年6月2日


 

源義経のチンギス・ハン説

 

あの英雄は実は生きていて、別の地に落ち延びていたという話は古今東西たくさんあります。

日本では源義経が有名ですね。

命からがら東北から中国大陸に渡り、チンギス・ハーンとなって覇業を成し遂げたという説です。

眉唾物の話ではありますが、もしかしたら……という可能性も確かにあります。

他にも豊臣秀頼が九州の地に逃げ延びていた。なんていうのもありましたね。

本能寺の変の織田信長もそうですが、

遺骸が見つからないとそういった「実は生きていた」という噂が必ず広まるものです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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袁術は建安四年(199年)六月に病死

袁術の最後

 

帝位を自称した袁術(えんじゅつ)は四方から漢軍に攻められ、

味方に見限られ、失意のなかで病死したと云われています。

逆賊として周囲から攻められたのであればその遺骸は晒されて然るべきですし、子孫も首を刎ねられるはずです。

しかし袁術の遺骸がそのようなことになったという記述は見当たりません。

 

孫策

 

血族の袁胤(えんいん)が棺を守り、劉勲(りゅうくん)を頼り、

その劉勲の城は孫策(そんさく)の計略によって落とされています。

つまり袁術の遺骸と妻子は孫策の手に渡ったわけですが、手荒なことにはなっていません。

それよりも袁術の娘は孫権の後宮に迎えられていますし、

息子の袁耀(えんよう)は呉で郎中として用いられています。

 

袁術は実は生きていた!?

袁術くやしいいい

 

もし病気になった袁術を孫家が密かに亡命させていたとしたらどうでしょうか。

東は劉備(りゅうび)がいますし、北には曹操(そうそう)がいます。

西にも劉表(りゅうひょう)と逃げ場がありません。

南の孫策も表面上は漢の皇室の意向に従って袁術とは疎遠になっています。

密かに逃がすのならばさらに南しかありません。

そこは山越族が暮らしている揚州南部よりはるか南になります。

そこならば漢の威光も微かなもので、袁術は静かに養生できるのです。

 

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南の地、ベトナム

袁術

 

かつて漢の武帝は広東からベトナムにかけての政権、南越を滅ぼしました。

そしてこの地に交趾(こうし)、九真(きゅうしん)、日南(にちなん)の三郡を設置したのです。

 

袁術

 

これが広大な領土を誇る交州の南部になります(ベトナム北部)。

ちなみにベトナムの南部にある林邑(りんゆう)や

扶南(ふなん)などの国は早くからインドの影響を色濃く受けており、

中国文化の南進はここまでは至っていません。

 

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交州の支配者・士燮(ししょう)

袁術 伝説 ゆるキャラ

 

交州刺史である朱符(漢の驃騎将軍として活躍した朱儁の息子)が地元の反乱で命を落とすと、

それに代わって交州を支配したのが豪族の士氏です。

交趾の太守であった士燮は、この混乱を鎮めるために

自分の弟ら血族を交州の各地の郡の太守にしていきます。

そして南海(現在の香港近郊)、合浦(現在の南寧近郊)から交趾、

九真に至る広大な領土を治めていくことになるのです。

それがはたして西暦何年のことなのか定かではありませんが

(186年から199年にかけてのことだとされています)、

実はこの士燮こそ生き延びた袁術だった……ってことはないでしょうか。

 

建安五年(200年)より攻められる

 

建安五年、混乱を制した士燮に襲い掛かってきたのが荊州の劉表です。

袁術が生きていたことに気が付いたのかもしれません。

果たして士燮は劉表の軍勢をどう撃退したのでしょうか。

一説には士氏は漢帝国に朝貢し、その支配を認められ、劉表の侵攻を未然に防いだとあります。

 

 

孫策の人生に一辺の悔い無し

 

200年と云えば孫策が暗殺された年でもあります。

後継者の孫権(そんけん)が士燮に援軍を出したのかもしれません。

どちらにせよ、210年には交州および士氏一族は完全に孫権(そんけん)に降伏します。

210年と云えば周瑜の病死した年です。

 

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どちらの民族にも慕われた士燮

中央の混乱を逃れて交州に来た名士には許靖や劉巴といった

面々の他に袁忠や袁微といった袁家の人間も多くいたようです。

士燮(ししょう)は土着の民と移民のどちらからも慕われる政治を施したと云われています。

 

曹丕

 

文帝(曹丕)が崩御した226年(呉歴・黄武五年)に士燮は亡くなり、

交州は呉国の直接支配となります。

そこまではほぼ独立国家として成り立っていたのです。

実は「仲」という国だったかもしれませんね。

 

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

ろひもと理穂さん

 

さすがに士燮=袁術は無理があったでしょうか。

士燮ファンの皆さまには申し訳ありません。

でもチンギス・ハーン=源義経が成り立つなら、士燮=袁術もありかなって思いませんか?

だとすると袁術はみんなから好かれる人望の持ち主だったことが証明されるのですが……。

 

 

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ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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