天下無双として三国志前半の時期を彩った呂布(りょふ)。彼は一騎打ちをさせれば関羽・張飛のふたりを相手にして互角以上の戦いを見せ、戦においても「飛将(ひしょう)」の名を冠するほどで、天才兵法家である曹操を何度も窮地に追いやる戦上手でした。そんな武勇と戦に秀でていた呂布と互角以上の戦いを繰り広げた武将がいたのをご存知でしたか。その名を張燕(ちょうえん)と言います。
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盗賊団結成
張角(ちょうかく)は漢の世の中を打倒しようと考え宗教反乱である「黄巾の乱」を勃発させます。この時後の三国志の群雄として活躍することになる劉備三兄弟や曹操・孫堅らもこの戦いに参加しておりました。
張燕はこの黄巾の乱が勃発し、漢の世の中が乱れ始めると近隣の村から悪たれ青年を見つけ出しては仲間に加えて、盗賊団を結成します。張燕を頭目とした盗賊団は乱れた各地の県や村を攻撃して、略奪を働くことで仲間を増やして自分の生まれ故郷へ帰ってきたときは、1万以上の兵力を有するほどになっておりました。
大盗賊団へ
張燕はそこそこの兵力を有していることを聞いた各地の盗賊の頭は、彼の傘下に入っていくことになります。そんな中張燕の盗賊団に匹敵する兵力を有していた張牛角(ちょうぎゅうかく)と言う人物が張燕の盗賊団に加わってきます。彼の勢力が仲間に加わった事で兵力は一気に増大。張燕は頭目の頭の位を張牛角へ譲って部下として働くことにします。その後この大盗賊団は大都市へ攻撃を仕掛けることにしますが、この攻防戦の最中に頭目である張牛角が流矢に当たって亡くなってしまいます。張牛角は「張燕に俺の跡を継がせろ」と遺言を残します。この遺言に従って張燕がこの大盗賊団の頭リーダーに就任。彼はリーダーになると攻撃中の城へ総攻撃をかけて陥落させます。自らの実力を諸盗賊へ見せつけた張燕は仲間達から「飛燕」と呼ばれるようになります。
百万人の盗賊リーダーへ
張燕は各地で盗賊となっている集団と仲良くなっていきます。彼等は張燕をリーダーとして仰ぎ各地から参集。張燕は仲間が次々に増えていくので、本拠地を決めねばならないと考え、河内の黒山を本拠地に据えます。張燕はいつまでも盗賊団という名前では格好が付くまいと考え本拠地「黒山」から名前を取って、「黒山衆(こくざんしゅう)」と命名。この黒山衆と名を変えた後も全国各地から参加してくる人数は日々増えて行き、ついに黒山衆の人数は100万人を超える大勢力に変貌。この当時100万を超す大勢力を持っていたのは張燕だけでした。
後漢王朝ですら討伐不可能
後漢王朝の皇帝である霊帝(れいてい)は黒山衆を討伐しようと各地の太守へ依頼を出しますが、黒山衆討伐軍はことごとく敗退することになります。また河北の郡や村などは彼ら黒山衆の攻撃を受けて被害はますます拡大していくことになります。この現状を憂いた霊帝は諸将に「どのようにすればあの盗賊団の一味の勢いを削ぐことができる」と質問しますが、彼らも黒山衆を討伐する考えが浮かびませんでした。こうして数年が過ぎた頃、黒山衆のリーダー張燕の使者がやってきます。
盗賊でありながら将軍の位をもらう
張燕は後漢王朝へ降伏する旨を記した使者を送ります。この降伏の使者と引見した霊帝は大喜びしたそうです。彼が喜んだであろう証左として。張燕に平難中郎将(へいなんちゅうろうしょう)という将軍の位と人材を朝廷に推挙する孝廉の資格をゲットします。こうして降伏をしながらも黒山衆の存在を朝廷へ認識させることに成功。張燕は天下の状況をよく見て、チャンスを物にする人物であったことも伺え、まさにリーダーの資格を有していた人物と言っていいでしょう。
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公孫賛の味方に付く
黒山衆のリーダー張燕(ちょうえん)は董卓連合軍を結成して、董卓討伐戦が繰り広げられると各地の群雄と手を結んで侵略されないようしてから力を蓄えます。その後董卓連合軍が解散すると各地の実力者は、領土を拡大しようします。こうして天下は乱れ群雄割拠の姿を現すことになります。張燕が本拠地として構えていた黒山がある冀州(きしゅう)も例外ではなく、袁紹(えんしょう)と公孫賛(こうそんさん)が戦を繰り広げておりました。彼は公孫賛に味方して、袁紹の領地へ攻撃を仕掛けます。袁紹は黒山衆を討伐しようと軍勢を率いて攻撃させますが、思うようには討伐戦が行かずに手を拱いておりました。
飛将軍・呂布と袁紹の連合軍が完成
袁紹は公孫賛と黒山衆の二方面からの攻撃に手を焼いておりました。そんな時、袁術(えんじゅつ)の元から逃れてきた呂布が袁紹の元へやってきます。袁紹は呂布が来ると彼に「黒山衆討伐に協力してくれないか」と依頼。呂布は部下達を食べさせなくてはならなかったので「わかりました。協力しましょう」と快諾します。こうして呂布と袁紹は協力して黒山衆攻撃を企てます。
飛燕VS飛将軍
張燕は呂布と袁紹が協力して攻撃を仕掛けてくると自ら戦線に出向いて指揮をとります。呂布軍は強力な騎馬隊で繰り返し突撃を敢行してきますが、張燕の見事な指揮によって撃退されていきます。しかし呂布も天下に響いた豪傑であり、張燕の軍勢を打ち破りながら数度突撃を行います。その結果張燕軍は崩れ去ってしまいますが、黒山衆のリーダーである張燕の首を討ち取ることはできませんでした。
こうして戦いは呂布・袁紹連合軍の勝利に終わることになります。その後呂布は袁紹に殺害されそうになったため、彼の陣営から脱走。袁紹は呂布を追っ払った後、弱った黒山衆に攻撃を仕掛けずに、公孫賛討伐へ兵力を注ぎついに滅亡させることに成功します。黒山衆は袁紹と呂布の連合軍に敗北した後、徐々に兵力は少なくなっていくことになります
河北統一と降伏
袁紹は公孫賛討伐に成功し、河北の統一を完了させます。そして袁紹は河南を有していた曹操と天下分け目の戦を繰り広げますが、官渡で袁紹軍は兵数に劣る曹操軍に大敗北。その後袁紹は病を発してなくなり、彼の息子達も曹操によって討伐されていきます。こうして河北と河南を制圧することに成功した曹操は、天下最大の勢力として君臨することになります。張燕は河北が曹操によって統一された事によって、今後独立を維持していくのが難しいと判断。彼は曹操の本拠地である鄴(ぎょう)城へ自らで向いて降伏します。こうして張燕が独立してから20年間以上戦い続け飛将軍である呂布とも互角に戦い、天下に恐れられた盗賊団「黒山衆」は解体されることになります。
三国志ライター黒田レンの独り言
呂布の軍勢には張遼・高順(こうじゅん)などの猛将がいるにも関わらず、張燕討伐に手こずることになります。このことは張燕の統率力がかなり優れていたことを表していると思います。盗賊といえば目的もなくただ自分達が飢えないために、村を焼いて村人から食料などを強奪する集団です。そんな集団を100万人以上集結させて、統率の取れた正規軍とまともにやり合うのは、相当難しいと言えるのではないのでしょうか。さらに張燕のすごい所は天下最強の名を欲しいままにした呂布軍とまともにやり合っているところです。もし張燕が正規軍を率いて優れた武将が幾人かいた状態で、呂布とやり合えばもしかしたら呂布軍は敗退していたかもしれません。また袁紹へ攻撃を仕掛けて冀州を自らの領地にしていた可能性もあるのではないのでしょうか。このように考えると張燕の指揮能力と統率力が袁紹や呂布と比べても遜色ないと思うのは、過大評価でしょうか。また張燕の息子は魏王朝の次の代となる晋において高官として仕え、八王の乱では趙王である司馬倫(しばりん)と共に行動したと記されております。
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