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関中の武将と言えば、馬騰(ばとう)、韓遂(かんすい)辺章(へんしょう)など
一筋縄ではいかない曲者(くせもの)揃いです。
元より、力だけが正義の実力社会関中では、裏切りは日常茶飯事なんですが、
その中でも、例外にあたる人物がいました、それがホウ徳です。
この記事の目次
南安狟道に生まれたホウ徳
ホウ徳は名を令明と言い、南安狟道(なんあん・こうどう)に産まれました。
若くして郡吏、州従事になりますが、西暦180年頃、馬騰が朝廷の命令で、
羌(きょう)族や氐(てい)族を攻めるべく出撃すると、ホウ徳も従い手柄を立てます。
それにより、幾度か昇進を繰り返したホウ徳は校尉になります。
ホウ徳は、こうして馬騰の配下として人生をスタートさせるのです。
袁譚が派遣した郭援、高幹を曹操の命令で打ち破る
曹操(そうそう)が袁紹(えんしょう)亡き後、遺児の袁譚(えんたん)、
袁尚(えんしょう)と北方を争っている頃の事です。
曹操を撹乱しようと袁譚は、郭援(かくえん)、高幹(こうかん)という
二将軍を派遣して河東を陥れます。
北と西からの挟撃を警戒した曹操は、鐘繇(しょうよう)を関中に派遣しました。
鐘繇は、馬騰を説得して味方につけ、馬騰は息子の馬超(ばちょう)とホウ徳を
曹操の援軍として派遣しました。
ここがホウ徳と曹操との最初の接点ですが、それはさておき、
ホウ徳は先鋒として、郭援、高幹に立ち向かって撃破し、
特に郭援については、自ら首を斬るという殊勲を挙げます。
自分が取った首が郭援とは気がつかない天然なホウ徳
しかし、乱戦の中だったので、ホウ徳は自分が斬った敵の首に、
敵将の郭援がいるとは思わず、袋の中に放置してありました。
戦争が終わると騒ぎになっていて、郭援が死んだのに首がないと
皆、不思議な顔をしていました。
そこには鐘繇の姿もありました、実は郭援は鐘繇の甥だったのです。
ホウ徳は「まさか」と思い袋から首を出すと、鐘繇は大声を挙げて
泣きだしました。
ホウ徳は泣いている鐘繇を見て、気の毒になり、
「なんか、すみません、でも戦争なんで勘弁して下さい」と謝罪します。
しかし、鐘繇も曹操に信任されるだけの事はあります。
「我が甥でも郭援は国賊だ、それでも、肉親の情は別だから泣いているだけ
将軍として当然の働きをした君がどうして謝るのか?」
と私情に流される事なく毅然として答えたと言います。
ホウ徳は、この手柄で中郎将となり、都亭侯に封じられます。
戦う度に手柄を立て、馬騰軍の看板スターに・・
その後、弘農で張白騎(ちょうはくき)が叛くと、関中の警察を任された馬騰が出陣、
ホウ徳が先鋒を勤めて、両殽(りょうこう)の間で張白騎を撃破してみせます。
この頃のホウ徳は、出陣する度に手柄を立て馬騰軍の看板スターでした。
西暦208年、曹操は、いつまでも馬騰を関中に置いておく事に不安を感じ
帝都である鄴(ぎょう)へ一族を引き連れて上るように命令を出します。
馬騰も最初は渋りますが、叛けば討伐されるので、一族二百名と共に上京します。
当初はホウ徳も上るつもりだったのでしょうが、長子の馬超が関中に残ったので、
馬騰はホウ徳を息子の腹心として残留させました。
これが、馬騰と馬超・ホウ徳の永遠の別れになります。
曹操の漢中攻略に馬超は疑心暗鬼に陥り、ついに叛く
西暦211年、曹操は漢中の張魯(ちょうろ)の討伐を計画し
夏侯淵(かこうえん)と鐘繇を向かわせます。
それを知った馬超は、曹操が関中の自立を奪い強制併合するつもりでは?と
疑心を持ち、やがて韓遂を巻き込んで曹操への謀反を図ります。
この時には、ホウ徳も馬超に従い曹操へ反旗を翻しました。
こうして潼関(どうかん)の戦いが勃発、馬超は優勢な騎馬隊で曹操を何度も
追い詰めますが、やがて持久戦に持ち込まれ、曹操の軍師、賈詡(かく)の離間の計に
引っ掛かり、馬超は韓遂と仲違いし、軍は崩壊してしまいます。
馬超は不利を悟り、漢陽に逃亡、ホウ徳もそれに従いますが、
曹操は、もう馬超の再起はないと見て、反対意見を抑えて鄴へ引きかえします。
これをチャンスと見た馬超は、再度、異民族を纏めて冀城(きじょう)を陥れ、
涼州刺史の韋康(いこう)を殺して拠点を得ます。
馬超は勢い盛んで、迎撃にやってきた夏侯淵を打ち破りますが、
復讐に燃える韋康の部下の楊阜(ようふ)が馬超の外征している隙を突き、
冀城でクーデターを起こして成功します。
戻る場所を失った馬超は漢中の張魯を頼り敗走、ホウ徳はその頃、
冀城を守備していたようですがやはり脱出して馬超に従いました。
こうして見ると、ホウ徳の忠義は相当なものである事が分ります。
曹操、漢中に侵攻、ホウ徳は馬超と袂を分かつ
張魯を頼った馬超ですが、再度、兵を借り冀城を奪還しようとするも、
今度は異民族も集まらず、失敗を繰り返しました。
また、張魯も、その家臣も次第に曹操に睨まれている馬超が邪魔になり
これを亡き者にする動きがあったので、馬超は恐れて武都から
氐族の土地に逃亡し、やがて劉備(りゅうび)に降ってしまうのです。
しかし、この時に苦楽を共にしたホウ徳の姿はありませんでした。
もしや、ホウ徳が馬超に愛想を尽かし、随行を断ったのでしょうか?
それは早合点かも知れません、何故なら、馬超は馬岱(ばたい)を連れているばかりで
妻の董氏も息子の馬秋(ばしゅう)も張魯の元に置いて逃げているからです。
或いは、馬岱だけに打ち明けた極秘の逃避行だった可能性もあります。
もし、馬超単独の逃避行だった場合、残されたホウ徳はどう感じたか・・
いずれにせよ、ホウ徳が馬超の後を追う事は、もうありませんでした。
時に西暦214年、ホウ徳は長年使えた馬氏と完全に袂を分かちます。
張魯と共に曹操に降伏、以後、忠義の鬼になる
西暦215年、張魯は多少の抵抗の末、曹操に降伏、ホウ徳も共に降伏します。
曹操は、馬秋を殺していますが、ホウ徳は生かし配下にしました。
それもヒラではなく、立義将軍、関門亭侯に封じ三百戸の食邑(しょくゆう)を与えます。
ちなみに食邑とは、村の決められた人数の農民から一定の年貢を徴収する権利です。
普通の役職に付く給与とは違い、一度受けるとヘマをしない限り、代々の後継者が
受け取る事が出来るので、大変に大きな褒美でした。
多くの三国志の武将達は、この列侯になり食邑を得る為に戦っていた程です。
誰よりも、曹操に激しく叛いた馬超の腹心、その立場ゆえにホウ徳は、
二度と主君を変えまいと誓った事でしょう。
そして、皮肉にも、その決意がホウ徳の名を歴史に留める事になります。
西暦219年、最期の戦いへと赴く ホウ徳
西暦219年、宛の郡大守の悪政に端を発し、
侯音(こうおん)、衛開(えいかい)という武将が曹操に叛きます。
それに呼応して荊州南郡の関羽(かんう)が出陣、鄴を落すべく進撃を開始しました。
この大ピンチに、ホウ徳は曹仁(そうじん)を大将として出陣、またたく間に、
侯音と衛開を斬り、関羽に備えて樊城(はんじょう)の外に布陣しました。
ですが、この時、ホウ徳を信じている樊城の武将は僅かでした。
その理由は、二つで、一つには、蜀にはホウ徳の兄であるホウ柔が仕官している事、
もう一つは、ホウ徳は、元々、馬超の部下で魏将になって日が浅い事です。
「勇ましく振る舞っているが、すでに関羽と密約があるんだろう?」
「所詮は関中の蛮賊、馬超の手下、状況次第で誰の配下にでもなるさ」
樊城の武将達はホウ徳を嘲り、冷ややかな目線を向けていました。
ホウ徳、関羽を殺すか関羽に殺されて死ぬと宣言する
その噂話は、ホウ徳の耳にも入りました。
関中の武将でも、ホウ徳は馬氏に忠誠を尽くし最期には馬超に捨てられただけで
ホウ徳自ら主君を見限ったわけではありません。
プライドの高いホウ徳は、その噂が我慢できなかったようです。
「私は国に恩義を受けた身だ! その証を立てる為に見事に死んで義を見せよう
今年中に関羽を殺してみせる、もし、出来ないなら私が関羽に殺されよう!」
こうして、白馬に跨り、関羽と戦う事、複数回に上り、ホウ徳の矢が、
関羽の兜の額を撃った事さえあります。
ホウ徳は白馬将軍と呼ばれ、関羽の兵は、皆それを避けようとしました。
無常の雨に、ホウ徳の軍勢水没、しかしあくまで戦う
奮戦するホウ徳に、曹操から派遣された于禁(うきん)の援軍がやってきます。
だが無常の雨が十数日も降り続き、漢水が氾濫、水は地上を水浸しにし
18メートルまでが水没しました。
ホウ徳も于禁も船を用意しておらず、兵の大半は水没します。
それでもホウ徳は、降伏せず高地に上り、大船で接近し矢を放つ関羽の軍に
同じく、矢を放ち応戦し、ホウ徳の矢は百発百中でした。
ですが、すでに食糧も兵士も流され大半はありません。
勝ち目がないと見た、ホウ徳の兵は続々と降伏しようとしますが、
ホウ徳は、それを押しとどめ斬って捨てて阻止します。
雨は降り続き、水かさはどんどん増し、ホウ徳の軍勢は続々と投降、
ホウ徳も矢が尽き、近寄ってくる関羽の軍船に接近戦を挑みます。
それは鬼気迫る程に凄まじい奮戦でした。
ホウ徳斬首され、武名を後世に残す
夜通し戦い続けて、太陽は上り、関羽の軍船の攻撃はさらに激しくなります。
すでに残り数十人になったホウ徳軍ですが、尚も勢い盛んで、
ホウ徳の覇気は、虎のようにみなぎり近くにいた成何(せいか)に言いました。
「なあ、成何よ、良き将は死に怯えて敵に降伏などせず、
立派な男というのは、ダンディズムを生命より大事にするもんだぜ
よし、決めたぞ!今日が俺の命日だ・・」
ホウ徳は、僅か3名の配下と共に小舟を手に入れ、残った武器を詰めて
樊城へ最期の脱出を図りますが無情にも船は転覆し関羽の兵に捕まります。
ホウ徳は関羽の前に引きだされますが、捕虜になるつもりがないホウ徳は
全くひざまずかず立ったままでした。
関羽は、ホウ徳が名将である事を知っていて、丁重に扱い聴きました。
関羽「貴殿の兄は、我が蜀に仕えている、配下に加えようと思うのに、
どうして無駄な抵抗をするのか?」
ホウ徳「小僧め!降れだと?我が主君は百万の精兵を持ち、
天下にかくれなき英傑、貴様の義兄のような凡夫とは違うのだ
俺は護国の鬼になろうとも、劉備などには降らんぞ・・
さあ、殺せ!俺は死んで義を立てたいのだ」
関羽はホウ徳の決意が固い事を知り、惜しみつつ処刑しました。
ホウ徳の叩き上げ人生録!関羽に降伏せず忠義の人と讃えられた関中の名将
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