賈詡はどうして李傕・郭汜に長安を襲わせたの?

2017年4月6日


 

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奇計を立てさせれば右に出るものはいない、曹操(そうそう)の懐刀、

軍師賈詡(かく)、その実力は張繍(ちょうしゅう)に仕えては、曹操を敗走させ、

馬超(ばちょう)韓遂(かんすい)を手紙一つで仲違いさせるなど驚くべきものです。

しかし、そんな賈詡、後世の評価は芳しいものではありません。

それは、賈詡の汚点と言われる、李傕(りかく)郭汜(かくし)に長安を襲撃させ

献帝を渡してしまったその責任を追及されるからです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陳寿は褒めたが、裴松之は痛烈に批判した。

 

正史三国志を書いた陳寿(ちんじゅ)は賈詡を、失策がなく事態の変化に通じていた、

前漢の張良(ちょうりょう)陳平(ちんぺい)に匹敵するとベタ褒めし、列伝も

荀彧(じゅんいく)荀攸(じゅんゆう)のような王佐の才で魏を盛り立てた

清廉な人々と同じく括っています。

ところが、三国志に注釈をつけた裴松之(はいしょうし)は、それに異議を唱えています。

 

董卓(とうたく)の死後、故郷に逃亡しようとしていた李傕や郭汜たちを押し止め、

長安攻略を進言して、折角、中国が平和になろうとしていたものを、わざわざ蒸し返し

世の中に混乱を強いたのは、全て賈詡の余計な一言のせいだ。

賈詡が、荀彧のような清廉な臣と一緒なのはオカシイ、郭嘉(かくか)

程昱(ていいく)のような、目的の為なら何でもする謀臣に加えた方がいいくらいだ」

 

このように不快感を隠さないで賈詡を批判しています。

 



本当に賈詡は、目的の為なら手段を選ばなかったのか?

 

裴松之が指摘するように、賈詡の進言により、李傕、郭汜は長安に10万の大軍で

攻め込み、王允(おういん)を処刑して、献帝を後ろ盾にし民を虐げて好き放題しました。

しかし、それは、賈詡の失策なのでしょうか?kawausoはそうは思いません。

 

当時の資料を見ると、王允は董卓を暗殺したものの、粛清が凄まじく、

特に、董卓と同じ涼州人は許さず、全て殺してしまうと言っていたようです。

その事に怯えている涼州人は、李傕や郭汜だけではありません。

樊稠(はんちょう)や、王方(おうほう)、張済(ちょうさい)などの

実力を持つ武将も、馬騰(ばとう)韓遂(かんすい)もいましたし、

黄巾賊崩れの野盗や山賊も万単位の兵を持って、長安の周辺の三輔をウロウロし

隙あれば長安を陥れる機会を伺っていました。

 

事実、あまり多くなかった李傕の兵は、反王允、董卓の弔い合戦を掲げると

どんどん兵が増えて、10万人に膨れ上がっていますから、

逆にいえば、長安の周辺には10万の賊がいたのです。

この事を裴松之は計算に入れていません、別に李傕・郭汜が攻めなくても

別の一団が長安を落した可能性は低くはないのです。

 

李傕・郭汜以外が長安を落した場合、考えられる最悪のシナリオ

 

もし、賈詡が李傕、郭汜が故郷に逃げるというのを黙認した場合、

求心力を失った王允・呂布政権を別の涼州人の軍閥が倒した可能性もあります。

王允は忠臣ですが、呂布は違います、不利と見れば帝を捨てて逃げるでしょう。

事実、李傕が攻めてきたら、献帝は放り出し、逃げているではないですか?

その場合、長安を落した勢力は献帝を保護するでしょうか?

いえ、その保障はないでしょう、あっさり殺して「天命が下った俺が天子だ!」と宣言

こうして、その勢力が新しい王朝を立て、後漢は滅亡した可能性もあるのです。

 

賈詡は李傕・郭汜を使い、献帝の身柄を守りたかった

 

賈詡に取って、李傕、郭汜が死のうが生きようがどうでもいいのです。

しかし、この連中は董卓の部下で献帝を活かして使う方が得だと知っています。

自分が入れ知恵して長安が落ちれば、賈詡を重んじて、ある程度言う事を聞くでしょう。

そこで、賈詡は、どうせ落ちる長安なら、李傕・郭汜に落させて、間接的に

献帝を守ろうとしたのです。

 

賈詡は献帝ではなく、後漢を守ろうとしていた?

 

献帝を賈詡が守ろうとしていたというと、その後曹操に賈詡が仕えた事と

矛盾する感じですが、それも誤解が生じています。

ぶっちゃけ、賈詡は献帝を守ろうとしたのではありませんで、

飽くまで後漢の命脈を、ある程度の時期まで保とうとしていただけなのです。

 

それは何故か?後漢を早めに滅ぼす事で、各地の群雄が勝手に帝を名乗り、

中華が大混乱するのを未然に阻止する為でした。

 

どんなに衰退していても、一応、後漢が存続していれば、どんな群雄も勝手に、

帝を名乗るのを躊躇するでしょう、それが、漢王朝400年の重さなのです。

もっとも袁術サンのような宇宙規模の先見性を持つ英雄には通じませんでしたが・・

 

そうして、後漢の命脈を保持しつつ、次の天下を任せられそうな群雄が出てきたら

その群雄に禅譲を勧めて後漢を滅ぼすのです。

これこそ、世の中の混乱を最小限に止め、平和裏に王朝を交代するという、

賈詡の深慮遠謀だったのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

賈詡の判断で、長安の人々は長期にわたり苦しみましたが、

もし、李傕、郭汜が長安を落さず、別勢力が長安を支配し献帝を殺したら、

三国志の大乱は、もっと収拾不能になったでしょう。

 

それぞれの群雄が、呉王や越王や、斉王を名乗って王朝を建国し、

それこそ春秋戦国時代のように、秦が武力で全てを押しつぶすまで

戦乱は止まなかったと思います。

 

三国志が三国志で終わり、100年程度で戦争が済んだのは、

まさに賈詡が長安を確保させ、献帝の身柄を保護し、調度良い所まで

後漢を延命させ曹丕の禅譲まで繋いだからなのです。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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