ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく
「ろひもと理穂の三国志のもしもボックス」のコーナーです。
大軍を率いる河北の雄・袁紹(えんしょう)は、
200年の「官渡の戦い」で配下の離反から大敗を喫します。
袁紹側は子の敗戦によって旗色は悪くなったものの、
広大な領地を有しており、未だ兵力も充分でした。
翌年の「倉亭の戦い」でリベンジを目指しますが、再び曹操(そうそう)に敗れます。
三国志演義ではこの戦について詳しく語っており、
程昱(ていいく)が発案した「十面埋伏の計」が大当たりし、
30万いた袁紹軍がわずか1万あまりになって撤退しています。
袁紹の次男の袁熙や甥の高幹も重傷を負ったそうです。どこまで真実かは不明です。
プライドをずたずたにされながらも袁紹は自領で発生する反乱を潰していきます。
袁紹側の勢力から曹操側に離反するものが相次いだのでしょう。
そして202年に袁紹は失意のうちに病死するのです。
残されたのは袁紹の三人の息子たち。
すなわち「袁譚(えんたん)」「袁熙(えんき)」「袁尚(えんしょう)」でした。
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河北の支配
袁紹は黄河以北をほぼ完全に掌握していました。
そしてその広大な領地を息子たちに治めさせたのです。
官渡の戦い以前に、長男の袁譚には曹操の領土と隣接する青州を任せています。
朝廷を押さえていた曹操もそのリクエストに応えて、袁譚を青州の刺史に任命しています。
西方の幷州は甥の高幹を刺史として任せています。
この高幹もなかなかの才能と野心を持った男だったようです。
曹操に対し効果的な攻撃を何度も仕掛けています。
最も北にある幽州は次男の袁熙に任せています。
ちょうど袁熙が甄氏と結ばれた時期です。
本拠地である冀州は袁紹自身が治めていましたが、
いずれは三男の袁尚に任せるつもりでした。
袁紹は三男の袁尚を最も寵愛していたからです。
血縁者で統一された河北は盤石かと思われましたが、
袁紹の思いとは逆に、息子たちは後継を巡って血みどろの抗争を始めることになります。
曹操は兵糧の問題も抱えていましたが、
袁家が内部分裂することを見抜いて許都に引き上げます。
曹操が河北平定に費やした時間
その後、曹操は袁譚と結んで袁尚と戦ったり、冀州の州府のある鄴を攻め落としたり、
盟約違反を理由に袁譚を滅ぼしたり、幽州の奥地まで攻め込んだり、
万里の長城を越えて烏丸を破ったりと奔走し、
官渡の戦い以後およそ7年の月日を費やして袁家を滅ぼし、河北を平定します。
三国志演義ではわずか三回の話で片づけられていますが、
実際はかなりの時間が必要となっているのです。
それだけ広大な領地であり、
袁紹の統治が行き届いていたために攻略に時間がかかったことを示しています。
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袁家三人トリオが協力していたら
もしも、袁譚と袁尚が対立せずに協力して曹操に立ち向かっていたら、
河北平定にさらに時間がかかっていたことでしょう。
袁譚には重臣の郭図がおり、袁尚には重臣の審配がいます。
他にも潁川郡出身の名士や冀州出身の名士も健在です。
もちろん曹操の陣営には荀彧や荀攸、郭嘉や程昱といった謀臣、
戦場での経験豊富な名将が揃っています。
人材面では曹操に分があります。
しかし曹操は周囲を敵に囲まれていました。
江東の覇者である孫策(そんさく)は亡くなっていましたが、
孫権(そんけん)が跡を継いでおり領土は安定しています。
軍を率いるのはあの周瑜(しゅうゆ)です。
曹操の背後を脅かすのはそれだけではありません。
荊州の劉表(りゅうひょう)がいます。
さらにその前線には関羽・張飛・趙雲を率いる劉備がいるのです。
これらが協力して曹操を攻めれば、曹操は河北の平定どころではなかったのではないでしょうか。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
袁家三人トリオが一致団結するには袁家当主を決めねばなりません。
袁紹の後妻である劉夫人は完全に袁尚推しです。冀州名士たちも袁尚を支持していました。
仮に袁紹が長男の袁譚を後継者に指名していても、兄弟の争いは起こったことでしょう。
そうなるように曹操は仕向けたはずです。
もしも袁譚がカリスマ性を備え、劉夫人を鄴から追い出し、
兄弟愛を幼少時代からはぐくんでいたら、袁家三人兄弟は父の仇である曹操を倒せたかもしれませんね。
皆さんはどうお考えですか。
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