僕陽の戦いで見る八健将(はちけんしょう)の実力に迫る!

2017年8月30日


 

 

呂布(りょふ)の八健将とは、三国志演義で記述されている称号です。

三国志界の豪傑として知られる呂布 奉先(りょふ ほうせん)に従った八人の将に与えられた、

三国志演義における架空の称号です。

劉備(りゅうび)の率いた蜀の五虎大将軍と同じような類のものです。

今回は八健将の演義での活躍や立ち位置を紹介した上で、

なぜ八健将なるものが作られたのか、独自に考えてみました。

 

関連記事:呂布の配下、八健将(はちけんしょう)とはどんな人たち?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも八健将の実力はどの程度?

 

八健将の将としての実力はどの程度だったのでしょうか。

そのメンバーは序列の順番から、張遼(ちょうりょう)

臧覇(ぞうは)、郝萌(かくぼう)、曹性(そうせい)、成廉(せいれん)、

魏続(ぎぞく)、宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)ら八人です。

トップの張遼(ちょうりょう)は後の魏の五大将軍の一人であり、

二位の臧覇(ぞうは)は正史では呂布(りょふ)の盟友というポジションでしたので、

それなりの実力者でしょう。

とはいえ、名声等も踏まえると他の者が彼らと同程度にも見えません。

そこで、彼らの活躍から実力を考えてみます。

 



八健将の登場時期

 

三国志演義で初めて「八健将」という記載が出てくるのが、濮陽の戦いです。

この戦いは、曹操(そうそう)霊帝(れいてい)時代から、黄巾賊の討伐や董卓反乱軍での戦いを経て、

それなりの権力を得たため、親孝行しようと父である曹嵩(そうすう)を呼び寄せたところ、

徐州で殺害されてしまい、怒った曹操(そうそう)が徐州に攻め入ろうとしますが、

その時空いていた本国を呂布(りょふ)に攻められます。

慌てて引き返した曹操(そうそう)は城外に陣をとり、呂布(りょふ)と奪った城を守ります。

複雑な流れですが、この経緯で濮陽の戦いが始まり、このとき八健将が初めて現われました。

 

八健将の初陣

 

濮陽で初陣となりますが、この戦いもかなりの複雑な戦いですので、

彼らの活躍のみをピックアップします。

開戦時に、八健将の臧覇(ぞうは)と曹操(そうそう)軍からは五大将軍の楽進(がくしん)が戦い、

三十余合程打っても決着がつきませんでした。

また、張遼(ちょうりょう)と夏侯惇(かこうとん)も互角の戦いをしていました。

この後、呂布(りょふ)が曹操(そうそう)軍に向かって突撃したため、

曹操(そうそう)軍が総崩れとなり、敗走していきました。

この様子を見ると、張遼(ちょうりょう)と臧覇(ぞうは)はかなりの実力者と見えます。

 

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初戦後・・・

 

初戦の夜、曹操(そうそう)は五大将軍の于禁(うきん)の進言により、

守りの手薄な濮陽の西の砦に夜襲をかけようとしていました。

一方の呂布(りょふ)は西の砦に夜襲があるという前提で、逆に出し抜く策を試みました。

なお、この作戦を考えたのは呂布(りょふ)陣営の参謀の陳宮(ちんきゅう)です。

呂布(りょふ)は八健将の魏続(ぎぞく)・侯成(こうせい)に命じ、

兵を率いて西の砦を固めに行かせました。

この時、呂布(りょふ)の配下の高順(こうじゅん)も同行しましたが、

彼もそれなりの将のはずですが、なぜか八健将にはノミネートされてません。

 

八健将の次戦・夜襲

 

夜襲によって曹操(そうそう)は一時砦を奪ったものの、策が読まれていたため、

すぐに取り返され、逆に伏兵に追い詰められていきます。

追撃を逃れようとする曹操(そうそう)の退路を、郝萌(かくぼう)、曹性(そうせい)、

成廉(せいれん)、宋憲(そうけん)の四将が断ちます。

この窮地を当時の曹操(そうそう)軍ではトップクラスの実力者、

悪来 典韋(あくらい てんい)が救います。典韋(てんい)は、

短戟を十数本を握りしめ、部下に言いました。

典韋(てんい)「賊めらが十歩のところまで来たら知らせろ」

呂布(りょふ)軍の追手十数騎が後ろに迫った時、

部下が知らせ、短戟による投擲を行い、迫りくる敵を一戟一殺、一度も外さず倒していきます。

一方、呂布(りょふ)軍は追撃しているにもかかわらず、

敵に追い付くやバタバタ倒れていく友軍を見て肝を冷やしていました。

典韋(てんい)の力に恐れをなし、追撃を断念しました。

郝萌(かくぼう)、曹性(そうせい)、成廉(せいれん)、宋憲(そうけん)の四将も堪らず四散しました。

この場面のみを見ると、典韋(てんい)より八健将の四将は劣っているように見えます。

典韋(てんい)が豪傑とはいえ、優勢で多勢という状況でも恐れて逃げてしまいました。

 

謀略の第三戦

 

濮陽城内に豪家の金持ちの田氏(でんし)に内通して、

城を奪おうとする曹操(そうそう)と田氏(でんし)を抱き込み、

裏をかこうとする呂布(りょふ)の謀略戦が始まります。

なお、呂布(りょふ)軍の作戦を考えたのはやはり参謀の陳宮(ちんきゅう)です。

田氏(でんし)から「合図と同時に城内で門を開ける」と伝えられていた

曹操(そうそう)は開いた門から城内深部まで突き進みます。

ところが、城内に人影ひとつ見当たらず、違和感に気が付きます。

慌てて撤退しようとした曹操(そうそう)でしたが行く手を八健将達が遮ります。

ここで、曹操(そうそう)の行く手を阻んだ侯成(こうせい)を典韋(てんい)が追い払います。

その後、石火矢の火で燃え盛る城門の梁で大火傷を負いながら、曹操(そうそう)は撤退しました。

最終的にこの戦いは、蝗の大量発生で食糧不足となり、両軍戦闘続行不可能となりました。

 

演義から見える彼らの役回り

 

以上が八健将の演義上での活躍です。

活躍と言うには、追い払われたり逃げたりであまり「良い見せ場」と言った感じではありません。

実は、正史では彼らは演義のように一括りではなく、各々がそれぞれの生涯を持っています。

では、三国志演義の著者、羅貫中(らかんちゅう)は

どのような意図で彼らをこのように記したのでしょうか。

私、FMとしては、八健将の物語上の位置づけは、

一言で言えば、「引き立て役」であったのだと考えています。

メンバーのうち、郝萌(かくぼう)、曹性(そうせい)、成廉(せいれん)、宋憲(そうけん)、

侯成(こうせい)らは、典韋(てんい)に撃退され逃げ出します。

魏続(ぎぞく)は今回登場していませんが、彼は曹操(そうそう)軍に降り、

後に袁紹(えんしょう)の部下、顔良(がんりょう)に討ち取られます。

それ以外のメンバーも名のある将に討ち取られた形になっています。

羅貫中(らかんちゅう)は八健将のメンバーを誰かに討ち取らせることで、

その将の株を上げ、また物語を面白くしたのではないでしょうか。

 

三国志ライターFMの独り言

 

八健将に限らず、羅貫中(らかんちゅう)は物語を面白くするためのフィクションを随所に加えています。

正史では病死だった武将が、演義では他の将との戦いの中で討ち死にした、

というように変えられていることが多々あります。

これも、三国志の醍醐味、戦乱という様子を示すための脚色の一つなのでしょう。

また、八健将のことに関しては、「引き立て役」とはいえ、

張遼(ちょうりょう)と臧覇(ぞうは)は例外でした。

彼らは、正史でもそれなりの地位でしたのでそのように書かねばなりません。

張遼(ちょうりょう)は演義では後に五大将軍としての活躍を描きたいので、

八健将時代にもそれなりの活躍を書かねばなりませんし、

臧覇(ぞうは)は正史では呂布(りょふ)の盟友でしたので無碍にできません。

そうしたバランスを考えて物語を面白くしようとしたのかもしれません。

 

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三国志は、大昔の出来事ですが、物語をいろいろな視点や切り口で見ていくと、新しくて面白い発見があるのが好きです。 人物像や対人関係、出来事、時代背景、逸話等々、古い話とはいえ、学ぶべきところはたくさんあります。 埃をかぶせておくにはもったいない、賢人たちの誇りがあります。

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